2016年2月7日日曜日

コンフォートゾーンの先の感情的な葛藤がインクルーシブ教育の鍵

こんにちは、入澤です。
今日は公正(Equity)と社会包摂(Inclusion)についての学び=変化がゆっくりとしか進まない理由をコンフォートゾーン、ラーニングゾーン、そしてパニックゾーンで構成される円上の図を使って簡単に説明します。図自体は多くの人がどこかで見たことがあるものだと思います。改めてこの図を使うことで社会的包摂についての学びにおける感情的葛藤の重要性が伝わると思います。これは子どもにも大人にも当てはまりますし、また教室内などのミクロなレベルにも、地域や社会全体の変化のようなマクロなレベルにも当てはまります。


まずは3つのレイヤーをそれぞれ見ていきましょう。




コンフォートゾーン我々は親しみのあるトピックについて扱うときはコンフォートゾーンの中にいます。自分が既に持っている知識は価値あるものと見なされており、困難を感じることはありません。我々が新しいことを学ぶように強いられた時、または我々が持っている常識が揺さぶられる時、我々はコンフォートゾーンの外、もしくは端にいることになります。もし我々がコンフォートゾーンのあまりにも外側=パニックゾーンにいると、新しい情報を拒絶することになってしまいます。


ラーニングゾーン
コンフォートゾーンから外に出るギリギリの場所こそがラーニングゾーンであり、我々の理解を広げ、新しい視点を獲得することに最も適しています。私たち自身の中に生まれる反応を注意深く観察することで、我々は自分がラーニングゾーンにいることを知ることができます。自分の中に生まれる困惑、不安、驚き、混乱、自己防衛といった感情が、我々自身が持っている価値観が揺さぶられていることの証です。もし、我々が自分の世界観を揺るがすものとの対峙を避け、自分のコンフォートゾーンに逃げ込むとしたら、我々は学びの機会を逃すことになるでしょう。学びの挑戦はラーニングゾーンを見極め、不快とともにあり、そして学びの導く方に身を委ねることで達成されます。

パニックゾーン=ネクストステップ
コンフォートゾーンを広げ、ラーニングゾーンを超えた先にあるパニックゾーンを取り込んでいくことが長期的に目指されなければなりません。ラーニングゾーンの枠を広げて、慣れ親しんだ知識や経験を増やすことで次のステップに進むことができます。代数の勉強にとりかかる前に、まずは基本的な足し算やかけ算ができなければならないのと同じように、公正な社会のあり方を考えるのにも長い学びの旅をしなければなりません。インクルーシブな教室と学校をつくるために知る必要があることすべてをすぐに理解せねばならないというわけでは必ずしもありません。大事なことは学習に取り組み続けれることです。そうすることでコンフォートゾーンは広がり続け、新しい考え方を知り、よりインクルーシブな学びの空間をつくることができます。
(Hardiman, Jackson and Griffinより作成)

さて、以上3つの層をそれぞれ見てきましたが、大事なのはラーニングゾーンでの感情的な葛藤のところだと思います。感情的な葛藤が生じていない限り本当の学びは発生していません。子どもたちに「差別って良くないよね」と言って「はーい」と返事が返ってきたとしても、彼らの血肉になるかたちでは学びは発生していません。同様に、「多様性って素敵やん」とキラキラと言っているだけの大人も何も学んでいません。

本当にインクルーシブな環境では今まで存在を気にかけていなかった<他者>が横にいることになります。その人はコミュニティから排斥されていたかもしれないし、もともといたんだけど自分のアイデンティティを隠さざるを得なかったのかもしれない。とにかく、未知の存在が横にいることになると心配だったり、驚いたり、もやもやしたりする。

半分カルチャーショックみたいなところもあるのですが、僕が体験した例を一つ。トロント大学には大学内に普通にホームレスがいて、ホームレスと学生が一緒に権利擁護のためにデモをするのを大学のコミュニティセンターが手伝うほどです。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所では1階の図書館でよくイベントが開かれていますが、その時に軽食が振る舞われるので、きまっていつも同じおじさんのホームレスが食べに来ます。でも、誰も何も気にしていなくて、僕は最初とても驚きました。

よく勉強しているロバーツライブラリーという図書館にもほぼ毎日いる中国系のホームレスのおじさんがいます。その人が時々、3階のトイレで体や服を洗っているのですが、服を洗うと埃が舞い上がり、それがめちゃめちゃ臭い。最初は、「はぁ?何やこれ?ふざけんなや!臭過ぎるやろ。ここは大学の図書館やぞ。」と思いました。五感を刺激する不快感にはさすがに耐えられず、思わず「出て行ってくれよ」と思ってしまいました。

ただ、立ち止まって考えてみると、自分の拒否反応というのは日本が清潔で、臭いものや汚いものの近くにいかなくても生きていける環境が整っていること、整い過ぎていることが原因の一つですよね。そして、社会的包摂が実現する限りはこういった社会が排除した「臭い」のようなものも含めて包摂されるのに、僕が強い不快感を感じたということは、政策や制度のレベルでばかり社会的包摂を考えていたということです。そして、僕は「公共」の部分ではなく「サービス」にアクセントを置いて、図書館という公共サービスを理解していたのでしょう。だからこそ、常に清潔に保たれているという「サービス」を無意識に求めたわけです。

このような振り返りの過程では自分の特権について否応もなく考えさせられます。自分の特権と向き合うこともまた感情的な葛藤を伴います。この間、僕はラーニングゾーンにいたのでしょう。そして、あの臭いが気にならなくなるには時間がかかりました。自分にとって「異質」なものが「普通」になるにはそれなりに時間がかかります。やはり、ゆっくりとしか変化はしていきません。

インクルーシブな社会を作るためには、Equityの問題について感情的な葛藤を伴う学びの体験を子どもの頃から積んだ人が増えないといけないのではないでしょうか?感情と理性の両輪での思考が求められます。


さてさて、今日はここまで。もう寝ます。

















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