2016年1月26日火曜日

トロント大学でのフェミニズムの存在感について

トロントに来て勉強を始めてから、フェミニズムの存在感をひしひしと感じてます。今日はそこらへんについてちょっと書きますね。

まず日本とカナダの男女の平等について考えてみると、日本は依然男女平等指数101位とかで先進国中最低水準ですね。。。対してカナダは30位で、カナダもめちゃめちゃ高いわけじゃないです。ただ、これはどうやら「政治」の指標における「過去50年間で女性が国のトップになった年数」というところが0なのが足を引っ張っているみたいです。それ以外はとても高い成績。(それにしても他の指標も見ましたけど、これで評価して本当にいいのかってちょっと思ってしまいますね。。大学ランキングぐらいの適当さか。)まあ、日本よりは当然ずっとマシです。

で、フェミニズムの存在感って何よ?という本題ですが、一番感じたのは昨年のトロント大学でのある事件です。ネット上の掲示板に「トロント大学のフェミニズムのコースで学生を殺害する」という殺害予告が行われ、学期初めはかなり騒然としていました。実は僕がとっていたCritical and Feminist Pedagogiesの授業もFeministという単語が入っているので初回授業は中止されてしまいました。

ただ、この事件に対してフェミニストの学生達も大学側も迅速に対応しました。学生達は大学に未だに存在しているミソジニー(女性嫌悪)に対抗するべく声をあげました。


また大学側も事件に迅速に対処。セキュリティを強化しアンチフェミニストから学生や教授達を守ると宣言しました。また、学長はじめ大学執行部が率先してUofT Feministのバッジを身につけフェミニストとの連帯をアピールし、教授達も"A Feminist Professor Works Here"という張り紙を研究室の扉に貼ることで意思表示しました。




フェミニスト達が集まりスピーチをしているところに実際に行ってみましたが、とても多くの人が集まっていました。中には男性や記者の姿もありました。

殺害予告がネット上に出たのは女性達が父権性社会を切り崩す強い影響力を持っていることへのバックラッシュ(揺り戻し)と言えるでしょう。フェミニスト達そしてトロント大学はそういったバックラッシュを許さないという強い姿勢をとりました。この事件を通じて、発生した差別的な事件に対して迅速に対応し、連帯のために行動する「民主的な知的体力」とも言える力の存在をひしひしと感じました。

また、もう一つ考えたいのはフェミニストという言葉の意味の広がりです。UofT Feministのバッジは男性もつけています。カナダのトルドー新首相も「自分はフェミニストだ」と公言しています。もちろん、政治的なアピールというのもあるのでしょうが、カナダでは一般名詞としての「フェミニスト」の定義の中に「父権性社会の抑圧のあり方を問題とし、自分の持っている男性としての特権を批判的に自覚し行動する男性」も当然のように入っているように思えます。もう既に議論はあると思いますが、日本に「フェミニスト」と言える男性はいるでしょうか?言えるでしょうか?

昨年の事件の話はここまでにして、ちょっと勉強している学部のことを最後に書きたいと思います。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所(OISE)には非常に多くのジェンダー×教育の領域を研究する研究者がいます。あまりにも多いので、必修のクラスの教授に「どうしてこんなに多くの研究者がいるのですか?」と聞いたことがありますが、その教授曰く昔はもっと多かったとのこと。フェミニズムの社会運動は退潮していきましたが、それでもフェミニスト達は大学に女性学のコースをつくることに貢献し、そこに居場所を見出しました。そして、「教室という特殊な公共空間をいかに女性の立場から社会のあり方を問う場にしていくのか?」という問いとフェミニストの大学教授達が向き合った結果、フェミニスト・ペダゴジーが発展していきました。OISEはいち早く女性学との連携講座を開き、その発展をさらに促した場所でした。

OISEの一階にはOISEの発展に貢献した女性達の写真が掲げられています。図書館の一画には女性学のコーナーがどーんと設けられています。昨年起こった殺害予告事件を考えても、どんな民主的な場所でも何もしないままに自由で非抑圧的な空気が保たれるなんてことはないのではないでしょうか?必ず揺り戻しの圧力は働きますし、失望するような事件も起きます。ただ、そんな時にも希望を失わないために、今までの到達点を示す象徴を持つことはとても重要に思えます。一階の一番目につく場所にあるこれらの写真は語らないままに常に多くのことを語っているのでしょう。


さて、勉強に戻ります。






0 件のコメント:

コメントを投稿