2016年1月26日火曜日

トロント大学でのフェミニズムの存在感について

トロントに来て勉強を始めてから、フェミニズムの存在感をひしひしと感じてます。今日はそこらへんについてちょっと書きますね。

まず日本とカナダの男女の平等について考えてみると、日本は依然男女平等指数101位とかで先進国中最低水準ですね。。。対してカナダは30位で、カナダもめちゃめちゃ高いわけじゃないです。ただ、これはどうやら「政治」の指標における「過去50年間で女性が国のトップになった年数」というところが0なのが足を引っ張っているみたいです。それ以外はとても高い成績。(それにしても他の指標も見ましたけど、これで評価して本当にいいのかってちょっと思ってしまいますね。。大学ランキングぐらいの適当さか。)まあ、日本よりは当然ずっとマシです。

で、フェミニズムの存在感って何よ?という本題ですが、一番感じたのは昨年のトロント大学でのある事件です。ネット上の掲示板に「トロント大学のフェミニズムのコースで学生を殺害する」という殺害予告が行われ、学期初めはかなり騒然としていました。実は僕がとっていたCritical and Feminist Pedagogiesの授業もFeministという単語が入っているので初回授業は中止されてしまいました。

ただ、この事件に対してフェミニストの学生達も大学側も迅速に対応しました。学生達は大学に未だに存在しているミソジニー(女性嫌悪)に対抗するべく声をあげました。


また大学側も事件に迅速に対処。セキュリティを強化しアンチフェミニストから学生や教授達を守ると宣言しました。また、学長はじめ大学執行部が率先してUofT Feministのバッジを身につけフェミニストとの連帯をアピールし、教授達も"A Feminist Professor Works Here"という張り紙を研究室の扉に貼ることで意思表示しました。




フェミニスト達が集まりスピーチをしているところに実際に行ってみましたが、とても多くの人が集まっていました。中には男性や記者の姿もありました。

殺害予告がネット上に出たのは女性達が父権性社会を切り崩す強い影響力を持っていることへのバックラッシュ(揺り戻し)と言えるでしょう。フェミニスト達そしてトロント大学はそういったバックラッシュを許さないという強い姿勢をとりました。この事件を通じて、発生した差別的な事件に対して迅速に対応し、連帯のために行動する「民主的な知的体力」とも言える力の存在をひしひしと感じました。

また、もう一つ考えたいのはフェミニストという言葉の意味の広がりです。UofT Feministのバッジは男性もつけています。カナダのトルドー新首相も「自分はフェミニストだ」と公言しています。もちろん、政治的なアピールというのもあるのでしょうが、カナダでは一般名詞としての「フェミニスト」の定義の中に「父権性社会の抑圧のあり方を問題とし、自分の持っている男性としての特権を批判的に自覚し行動する男性」も当然のように入っているように思えます。もう既に議論はあると思いますが、日本に「フェミニスト」と言える男性はいるでしょうか?言えるでしょうか?

昨年の事件の話はここまでにして、ちょっと勉強している学部のことを最後に書きたいと思います。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所(OISE)には非常に多くのジェンダー×教育の領域を研究する研究者がいます。あまりにも多いので、必修のクラスの教授に「どうしてこんなに多くの研究者がいるのですか?」と聞いたことがありますが、その教授曰く昔はもっと多かったとのこと。フェミニズムの社会運動は退潮していきましたが、それでもフェミニスト達は大学に女性学のコースをつくることに貢献し、そこに居場所を見出しました。そして、「教室という特殊な公共空間をいかに女性の立場から社会のあり方を問う場にしていくのか?」という問いとフェミニストの大学教授達が向き合った結果、フェミニスト・ペダゴジーが発展していきました。OISEはいち早く女性学との連携講座を開き、その発展をさらに促した場所でした。

OISEの一階にはOISEの発展に貢献した女性達の写真が掲げられています。図書館の一画には女性学のコーナーがどーんと設けられています。昨年起こった殺害予告事件を考えても、どんな民主的な場所でも何もしないままに自由で非抑圧的な空気が保たれるなんてことはないのではないでしょうか?必ず揺り戻しの圧力は働きますし、失望するような事件も起きます。ただ、そんな時にも希望を失わないために、今までの到達点を示す象徴を持つことはとても重要に思えます。一階の一番目につく場所にあるこれらの写真は語らないままに常に多くのことを語っているのでしょう。


さて、勉強に戻ります。






2016年1月25日月曜日

”Tough Guise” メディアから作られる男らしさ

Tough Guiseはメディアによる過剰なMasculinityの表象について扱った作品。Guise(見た目)とGuys(男)がかかってるのかな。前学期にCritical and Feminist Pedagogiesの教授に教えてもらいました。全編がYoutubeにアップロードされています。ちなみにTough Guise 2もあります。長めの作品ですが英語もかなりわかりやすいし、苦手な人でも雰囲気でわかるかと。今後はこういう動画、映画の紹介もしていきたいなーと思い、とりあえずやってみました。ネタは一兆個ぐらいあるしな。



男性の方が傷害事件を起こすことが圧倒的に多いって、なんだか当たり前のことのように思ってしまいますが、よくよく考えると全然そんなことないですよね。あと、おもちゃの手の太さが時代が下るごとにどんどん太くなってるのちょっと面白かった。あまりにも過剰な表現なのに言われるまで違和感なく受け止めていたというのが怖い。

スクリーンの前にいることがべらぼうに長い現代です。我々がメディアから自然と学んでしまっていることに教育屋さんももっと注意した方がいいですよね。求められるのは「あの番組は下品だからだめ」とかの禁止の言説ではなくて(そういうのも必要やけどな。キリなさそうやん。)、子どもたちがメディアを批判的に読み解く力を持てるように導くペダゴジーでしょう。

ではでは勉強に戻ります。




2016年1月24日日曜日

The Reason Education Sucks 「なんで教育はクソなのか」

ジョージ・カーリンは7年ぐらい前に亡くなったアメリカのコメディアン。歯に衣着せぬ物言いで政治や社会を批判して人気を博しました。この人の動画をTheoretical Framework in Culture and Communicationの授業中に見たのでシェア。偶然にも日本語字幕がついているものがありました。もともとのタイトルはThe Reason Education Sucksです。


「落ちこぼれなし」の日本語字幕のところではNo Child Left Behindって言ってますね。ブッシュJr.時代に制定されたアメリカ教育の悪法中の悪法です。簡単に言うと統一テストで定められた点数を子どもたちがとることを学校に強く強く求めていくというもの。そして結果に応じて学校に対して信賞必罰をくらわせるというものです。ヘッドスタートと言っているところは「飛び級」と訳されていますが、どちらかというと就学前教育のプログラムのことだと思います。昔から就学前教育に力を入れて子どもたちをヘッドスタート、つまり教育における順調な滑り出しを実現しようとか言っていたくせに「落ちこぼれなし」ってどういうこと?何やってたの?みたいな批判をカーリンはしています。

そして、後半はまさにクリティカル・ペダゴジーが求められる理由を言ってくれていますね。教養があって批判的に考える市民なんて求められていない。そういう人間が育ってこないようにするために教育はずっとずっとクソのままなんだぜ、というのはすごく強烈なメッセージです。

ではでは、勉強に戻ります。




本物の声とぶつかるということ

先学期のCritical and Feminist Pedagogiesというコースの思い出をちょっと書いてみようと思います。とても面白いコースで、最初はパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んだり、Critical Pedagogy Readerからいつくか論文を読んだりしていました。話題は徐々にフェミニストの教育者からのクリティカル・ペダゴジーへの批判に焦点が移っていき、後半はクィア理論とかも扱いました。

コースで学んだ内容も紹介したいのですが、今回はちょっと違う視点から振り返りたいなと思います。それは一人ひとりの語り。

オンタリオ教育研究所で学んでいると差別や抑圧についてクラスで語る時、クラスメイトの当事者としての語りを聞く機会がよくあります。クラスの中には黒人もいればネイティブカナディアンもいますし性的少数者もいます。彼らの経験についての語りを聞く度にガツンと頭を殴られる様な衝撃を感じます。そういう「ガツンとくるやつ」が特にCritical and Feminist Pedagogiesの授業では多かった。

例えば、教授が友人の教授をゲストティーチャーで呼んでくることが何度かあったのですが、そのうちの一人は70歳ぐらいの女性で(海外の大学だと定年過ぎても普通に教えてる人多い。名誉教授でなくても。)エジプトからの移民のレズビアンの教授。黒でも白でもないブラウンの肌を持つ者として感じてきた抑圧、レズビアンとして受けてきた差別、そして故郷を失った第三世界出身者としての喪失感、漂流感。そういった自身の経験の語りを織り交ぜながら執筆された論文について講義してもらったとき、圧倒されて自分をとても小さなものに感じると同時に、この人からこの授業をしてもらえて本当に幸せだと思いました。黒人フェミニストとして有名なベル・フックスという教授が「白人の教授と黒人の教授だったら、私は黒人の教授から学びたいと言う。教える内容は同じかもしれないが、後者には存在への情熱を感じるからだ。」みたいなことを言っているのですが、きっと存在への情熱っていうのはこういう感覚なんだなぁと授業が終わった後の帰り道、しみじみと思っていました。

また、とても仲良くなったクラスメイトに僕と同じぐらいの年齢の女性でイランからの移民だという人がいました。Colors of fearというアメリカの様々な人種の人たちが人種の問題について本音で語り合う映画を見た後、その女性が「カナダはマルチカルチャリズムを掲げているが現実は違う。マルチカルチャリズムなんて大声で皆が言ってるから私は何も言えなくなった。ずっとずっと私は白でも黒でもない茶色の肌で、周りに馴染む感覚を得られなかった。自分が苦しいということさえちゃんと自己認知出来たのはつい最近だ。この映画には私が写っていた。」と感情を乱しながら言っていました。彼女の発言を受けてクラス皆がちょっとずつ話したのですが、僕は何も話せませんでした。話そうと思えば話せるのですが、その時は話すべきではないと思ったんです。

社会の中で自分が持っている特権(カナダで社会正義を考える時、privilegeの話は必須です。これについてはまたどこかで書きましょう。)について自分がどこまで本気で考えていたのだろうか?という問いが自分に迫っていて、そんな中途半端な自分にはこの人の言葉に軽々しく共感を示すことはできないと思えました。自分という存在はカナダの文脈に馴染んでいないのでカナダの政治や文化について何か言うこともできませんし、日本について軽々しいことを言うことも憚られました。このコースの残りの期間、僕はずっとこの日のことを考えて過ごしました。すると教授はそのことに気がついてくれ、最終課題のエッセイのライティングパートナー(お互いのエッセイをフィードバックしあう組)にその女性を選んでくれました。

彼女のエッセイについて詳細を書くことはできません。ただ、そのエッセイはイラン・イラク戦争の勃発、フセインによる反旗を翻した若者への粛正によって国を追われ、両親と共にカナダに渡ったというような書き出しで、とても圧倒されたのを覚えています。「私の人種化された体(racialized body)は大国の政治ゲームで生まれた」という言葉を前に、移民の受け入れを頑に拒む豊かな国から来た自分はどんな言葉を発せられるでしょうか?

「他者の存在をブログのネタにして消費する」というのは一つの不正義になりえることだと思います。ただ、目撃した現実を鑑賞の域にとどめ証言することを拒むことも一つの不正義だと思います。自分が日本からの留学生であることを考えると書く方がいいと判断しました。実証的な数字が真理として認められる時代にあって、証言者としての語りはあいまいなものとして否定される傾向にどんどんなっていくのでしょう。それでも、現実を目撃し続けなければならないし、証言し続けなければならない。自分の証言が正しいものとして認められるように、少しでも賢くならないといけない。学問をするというのは自分にとってそういうことなのでしょう。Critical and Feminist Pedagogiesというコースをとって、そんなことを考えました。









2016年1月17日日曜日

オンタリオ教育研究所留学:近況報告

前回の更新が秋学期の最初だった気がするのは気のせいだよね。
トロントからこんにちは。入澤です。

夏にはトロント大学オンタリオ教育研究所を卒業するので本当にそろそろ真面目に更新していこうと心を改めました(4ヶ月ぶり2度目)。正直、前学期は毎週のリーディングと課題の量が半端無く多くて最初の方は毎週なんとかこなすので精一杯でした。落ち着いてきたな、と思っていたら中粒の課題ラッシュ。最後にたたみかける最終課題。そしてだらけきる正月休み。でも、安心して下さい。書いてますよ。

今学期は毎週土曜日はちょっと勉強のペースを緩めると決めたので、最低でも週一回は更新します。勉強している内容、留学についてなど色々発信していく所存。でも、本当にどんな読者を想定して、どんな文体で、どんな内容を書くかを考えるってなかなか難しいですね。個人的には更新される度にちゃんと読むブログとかはなくて、時々確認するみたいなのがいっぱいある感じです。そもそもこれだけ情報がネット上に溢れかえる時代においては「(○○さんの)読者」って概念自体が失効してる気もします。一つの味に固執するのは賢くないのかな?夜はコース料理で一定のメニュー、味を提供しつつ、昼はビュッフェ形式で色々提供するレストランみたいなブログを目指したらいいのかな?まあ、色々実験します。

さて、近況報告おば。
エルニーニョ現象はばっちりカナダの気候にも影響を与え、1月とは思えない暖かさです。異常気象の増加など大変なことは山ほどあるのであんまり叫んじゃいけないのですが、一回ぐらいいいでしょう。Yeah!! Good Job!! エルニーニョ!だいたい例年一月は氷点下2ケタとか行くのですが、昨日なんて4度ぐらいまで上がって雪がかなり溶けました。ざまあねえぜ!!道の雪が溶ける度に雪の下から犬のうんこがいっぱい出現しますが気にしません。春の訪れを告げる蕗の薹にさえ思えます。なにはともあれ、今年の冬は去年に比べて楽に越せそうです。

今学期は授業を2つ履修し、1つ聴講します。
1つ目はCritical Pedagogy, Language and Cultural Diversity。秋学期に引き続いてクリティカルペダゴジー(日本語で批判的ペダゴジーや批判的教授法とか書こうか迷っちゃいますが、今のところクリティカルペダゴジーと表記します)についての授業をとります。今学期のコースはCurriculum, Teaching and Learningの言語教育を扱う学科で開講されるので言語的マイノリティなどのテーマについても扱うみたい。ただ、シラバス見る限り先学期に比べてずっとクリティカルペダゴジーど真ん中なので楽しみです。

ただ、1つ問題なのがオンラインで行われるコースだということです。どうやらオンラインで配信される映像があるわけではなく(!)、リーディングをこなして掲示板上でディスカッションするという形態らしい。教授は色々と仕掛けをつくっているようですが、本当に深い学びがそれで実現できるのかちょっと疑問です。まぁ言っててもしゃあないので1回やってみようと思います。

2つ目はFoucault, Discourse and The Health Professionという授業。フーコーの著作、フーコーの理論についての論文、フーコーの理論を使用した論文を読んでいくコースです。特に「フーコーを使う」というところをちゃんと勉強したいと思い履修することにしました。ただ、これも問題が一つあって、コースタイトルからも分かりますが中心的なテーマは教育じゃなくて医療なんです。オンタリオ教育研究所で開講されているコースですが、教える教授は医学部にも所属する先生です(そしてトロント大学附属病院の副院長らしい。)そして、初回授業に出席しましたがクラスメイトはほぼ全員医学部の修士か博士の人たち。彼らのほとんどが現役の医者です。グループディスカッションで同じになった3人が全員外科医でなんだか新鮮でした。

3つ目は聴講するコースです。Theoretical Framework in Culture and Communicationというコースで、前学期のCritical and Feminist Pedagogiesの先生が教えるコースです。コース名からはちょっとわかりにくいですが、内容は教育×カルチャルスタディーズみたいなもの。クリティカルペダゴジーを深く学びたかったらちゃんと押さえないといけないなぁと思い、聴講することにしました。

さっそく大量のリーディングに埋もれております。ただ、勉強したいことが勉強できるって本当に幸せ。ちゃんと世の中に還元出来るように精進します。

ではでは。


2015年9月22日火曜日

ブログ再開

三日坊主という言葉を体現した当ブログですが、今日から再開します。
この九月から留学も二年目、来年の七月ぐらいには晴れて全コースを終えて卒業ということで、残りの一年弱ぐらいはちゃんと日々の学びや経験を書き残しておこうと思います。

さて、再開一発目ということで今学期にとるコースと論文の執筆について書いておこうと思います。まず、今学期に履修するコースは二つです。一つはResearch Seminar in Feminist Criticism and Pedagogy、もう一つはEducational Activism for Social, Economic, and Environmental Justiceです。両方とも僕が所属しているCurriculum, Teaching and Learning(CTL)という学科とは違うコースの授業で、Social Justice Education(SJE)という学科で開講されているコースです。

一つ目のResearch Seminar in Feminist Criticism and Pedagogyというコースはパウロ・フレイレ以降の批判的教育学研究、クリティカル・ペダゴジーの発展とそれに対するフェミニスト達の批判について学びます。

何のこっちゃ?と思われるかもしれません。簡単に説明します。デューイに並ぶ20世紀最大の教育学者・実践家にパウロ・フレイレという人がいます。このフレイレというブラジルの教育者が弱い立場に置かれた人たちをエンパワーする教育学(Pedagogyなので教授法って言った方がいいのかも)をブラジルの貧困が激しい地域で実践し大きな成果を上げました。フレイレが北米に亡命したこともあって、彼の教育学は北米の多くの人に影響を与えました。フレイレの主著『被抑圧者の教育学』は世界で最も読まれている教育学書と言ってもいいと思います。ただ、被抑圧者の教育学については、フレイレが白人男性ということもあり「フレイレの言う被抑圧者というのは男性の目線からしか語られていない!」という批判や「フレイレは黒人の抑圧状況についてわかっていない!」というような批判等多くの批判が寄せられました。こういった批判が建設的に積み重ねられることで人(主にマイノリティ)をエンパワーするための教育学(クリティカル・ペダゴジー等)が発展していきます。(フレイレやクリティカル・ペダゴジーについてはちゃんとした説明をしたいので、また別途記事を書きたいです。)

その発展の中でも特に女性の立場から思考するフェミニストからの批判が大きな役割を果たしました。Research Seminar in Feminist Criticism and Pedagogyという授業ではそういったクリティカル・ペダゴジー、そしてフェミニストの哲学を反映したフェミニスト・ペダゴジーについて学びます。リーディングの課題が半端ないので涙目ですが、本気で勉強したい内容なので気合い入れて頑張ります。

二つ目はEducational Activism for Social, Economic, and Environmental Justiceという授業。シラバスには、授業の目的は教育の領域において活動家として社会経済的そして環境に関する正義を促進するとはどういうことかについての理解を深めることだと書かれています。授業で扱うトピックはグローバリゼーション、クリティカル・ペダゴジー、環境問題など多様。クラスの半分は教師で半分はNPOで働く人という感じです。なんかActivismとか活動家とか言われると少しビクッとしてしまいますよね。この感覚は日本人だけのものではないようです(それでも日本人は戦後の色んな事件の記憶もあり過剰に反応してしまう方でしょうが)。ただ、カナダではより自然に民主的な社会の実現のために必要な知識と実践だと受け止められているように感じます(日本でも今ちょうど受け止め方が変わりつつありますね)。本来過激なものではなく民主的な社会に必要な一つのピースである活動家の理論と実践について肌感覚で学べればと思っています。

そして論文について。卒業に論文執筆は必須ではないのですが、なんとか頑張って書こうと思っています。僕の取得予定学位はM.Edなのですが、それだとコース10個だけで卒業できるんですよね。論文執筆が卒業要件のM.Aだとコース6つと修士論文ということになります。実は、アドバイザーの教授には修論を書きたいのならM.Aに変えてあげるよと言われていました。ただ、オンタリオ教育研究所で学ぶうちに自分が学びたいことが少しずつ変わっていっているのを感じていましたし、二年目にとれるコースの数が減ってしまうのはとても惜しいと感じました。なので、かなり冒険なのですがM.Edのままで論文を書き進めることにしました。そもそも入学当初はM.Aへの移行を狙っていたし、そのために一年目はとった五つのコース全部A取ったりと頑張ったのですが、自分の選択に悔いはあんまりないです。決めたからには進むのみ。

論文のテーマはアメリカの教育NPOの分析を入口にして、現代の新自由主義特有の権力のあり方を示すというものになる予定。フーコーに絶賛片思い中です。偉そうに書いてますが、まだ1ページも書けてないです。ただ、研究を進めるにつれて社会を変えようとすればするほど社会が変わらなくなる様子が浮かび上がってきました。日本の現状にも示唆が与えられる研究だと思うので頑張りたいです・・・!ただ、履修するコースのリーディングの量が半端ない。これで本当に自分の研究に時間割けるのか(そしてブログ書き続けられるのか?)。なんとかせねば。

最後に。昨年は色んな授業に出ましたが(機会があれば書きます)、主に北米の教師教育研究などを学んでいました。学ぶうちに教師が社会正義に果たす役割について関心が移り(というかたぶん言語化できていなかっただけで最初からこれに関心があった)、クリティカル・ペダゴジー等を学び始めました。

結局、僕にとっての一番大事な問いは「教育で社会を変えるってどういうことか?」なのだと思います。最後の1年はコースワークも論文もこの問いを中心に回るでしょう。

学問に打ち込める幸せを日々噛みしめています。
とにかく、日々の学びと出会いを大切にしながら残り一年を楽しみます。


ではでは。





2014年10月11日土曜日

オンタリオ教育研究所の授業ってどんなんよ?


お久しぶりです、入澤です。
しばらく更新が滞ってしまいました。
課題が重なる時期にもコンスタントにブログを更新するのは難しいですね。
記事を書きためておく等方法を考えます。


さて、授業が始まって一ヶ月が経ちました。そこで今回はこちらの授業がどんな感じで行われているか、主にCurrent Issues in Teacher Educationの授業を主に取り上げて説明したいと思います。


教授はClare Kosnikという50代ぐらい?の女性の教授です。
こちらの教授はだいたいそうですが、教師として学校で働いた経験を持ち、その後大学に戻ってPhDは教育哲学の分野でとったと言っていました。高めの声とファッショナブルな服装が特徴的で、とても優しい素敵な方です。特にゆっくりと話してくれるのでリスニングに問題がある私にはとても助かります。


Clive Beckという名誉教授との共同研究が多く、近年多くの教師教育の研究、特に教職課程のプログラムのデザインに関する研究を多く発表されています。また、同時にLiteracyに関する研究も多く、最近はLiteracy Teacher Education(読み書き計算を教える教師をどう育てるのか)に関する研究も多く発表されています。ホームページもありますよ→http://literacyteaching.net/


授業に参加している生徒はだいたい20名(カナダ人が17人。中国人2人、私)。
ほぼ全員が教師として現場で働いた経験を持ち、なかには校長先生もいれば、教育委員会で人権・エクイティー委員?みたいなのを長年やっているというような人もいます。教育実習生の指導教官として教師教育に関わったという人も多いです。これは他の授業の話(結局とらなかった)ですが、教授が繰り返し「この教室に集まっている一人ひとりが貴重な学びのリソースだ。」と言っていたのが印象に残っています。これはその授業だけでなく、おそらくOISE全ての授業で共通の考え方のように感じています。特に教師教育はまだまだ発展途上の学問分野なので、現場の最先端の声が大学の教室に持ち込まれることにとても価値があるように感じます。実際、生徒の発言に反応して、教授が何度も授業中に"This is sooooo interesting!!!!"と叫ぶのをよく聴きます。教授も毎回の授業で学んでいます。


授業は1回3時間。授業ではリーディングアサインメントに基づいたディスカッション(ディスカッションというよりはダイアローグと言った方がいいかもしれません)だけでなく、皆で一緒に教師教育に関する動画を見てからディスカッションをすることもあれば、ゲストスピーカーが来てプレゼンしてくれることもあります。


また、リーディングアサインメントに基づいたディスカッションも色々な形式が取り入れられます。例えば、ある時は教授の本の2、3、4章のうちのどれか一つを生徒に課題として渡しておいて、次の授業で生徒がそれぞれの章の内容を共有し合う(2、3、4章のどれか一つを読んだ3人が集まる)ジグソー学習をしたり、リーディングアサインメントの内容に沿って形式上立場を二つにわけてディベートしたりします。何か一つの結論を出すことが目的とされることはなく、生徒一人ひとりが学びを深めることが目的とされており、学びが開かれているように感じます。


さらに、毎回の授業で生徒によるプレゼンがあります。成績評価に関係がないとシラバスに書いてあったのでおそらくやる人はそんなにいないのだろうと思っていたら、最初の授業の終わりに教授がやりたい人と呼びかけたところ、10人ぐらいさっと手を挙げていて驚きました。テーマから時間まで完全に生徒に任されており、生徒は自分の得意な分野、専門性がある分野(もちろん教師教育に関する分野)についてプレゼンします。プレゼンを聴いていて驚くのは、全員が教師なのでとにかくプレゼンが上手い!ということ。そして、一方的に情報を提供するようなプレゼンではなく、ペアやグループで考えたり、意見を共有するワークが取り入れられた双方向的なプレゼンであるということです。私も11月の半ばにプレゼンをするので、今から色々と準備しています。


そして、これが一番大事なことだと思うのですが、教室にはとても安全なコミュニティがあります。海外の大学院の授業というと、積極的に授業に参加し発言することが求められるというイメージがありますが、OISEは違うようです。もちろん教授は生徒の参加を促しはしますが、決して強制はしません。「積極的にガンガン話す人もいれば、あまり話さない人もいるよね。色んな人がいていいよね。皆がみんな、それぞれの学び方で学ぶもんね。」という前提が共有されているように感じます。人が一番学ぶのは、その人が心身の安全を感じ、自分が周りの環境に影響を与えることが出来ると実感しているときだという確信をOISEは体現しているのだと思います。私はまだまだ英語がちょっとあれなので、なかなか授業に積極的に参加することが出来ません。ですが、自分のあり方を認められ、自分の学びの手綱の持ち方を「それでいいんだよ」と言ってもらえているように感じています。


OISEは世界で10本の指に入る教育研究の集積地ですが、留学生に求めるTOEFLの点数は90点台前半です(私はこれにも満たないのに入れてしまいました。てへぺろ。)。トロント大学の他の大学院だと100前後が普通のようです。これは一体何でなんだろう?と思っていたのですが、OISEには語学的にたとえ劣っていても留学生をコミュニティに包み込み、そして違う国で教育に関わってきた彼らの経験を学びのリソースとしてコミュニティ全体に還元することが可能だという自信があるのだと思いました。


OISEにいる人は教授もスタッフも生徒も教育者としての自覚を持ち、人が健やかに学ぶことが出来る教育学的な空間に関する共通理解を持っているように思います。そのような空間に触れていることが、そもそも大きな学びの一つだと感じます。また、それぞれの教室でそのような空間を体現していく教授のスキル、人間理解からも日々学んでいます。


最後、少し話が脱線した?かもしれませんが、以上がOISEの授業の様子です。
それじゃ、今日はこの辺で。。