2016年5月16日月曜日

Miss Representation メディアが曲げる女性像

こんにちは、入澤です。
トロントはなぜか今日雹が振りました。ウィンターコートを再び引っ張り出さないといけないぐらいの寒い気温です。午前中は6度とかでした。

さて、今日はYouTubeでも見れるMiss Representation (2011)という映画の紹介。
Missが使われていることからわかるように女性のメディアでの表象のされ方をテーマとした映画です。これはThe Representation Projectという社会がつくり出す固定観念、偏見を打ち壊すことを目標にする団体が作ったもの。以下の動画でやりたいことをわかりやすく伝えています。


Miss Representation の中にはアメリカのトップ政治家やニュースキャスター、学者、映画監督など多くの女性達が登場し、自分の経験やアメリカメディアの分析を共有しています。そのどれもが素晴らしく、この映画の価値を高めています。ですが、何よりも素晴らしいのは、この映画の監督が常に子を思う母として、アメリカ社会をこれから生きていく子どもたちのことを考えていることが伝わるところです。映画の中には何人もの女子高生が登場し生の声を届けています。その中にはリーダーシップポジションにつき活躍している生徒もいます。この映画の監督が女性として、人生の先輩として、その子の背中を押しているのを強く感じさせられます。

さて、実際の映画は以下です。
かなり頻繁にメディアの悪影響を如実に伝える映像が流れるので家で1人で見ることをお勧めします笑。


最後に思うところを少しだけ。
メディア・リテラシーという言葉を最近よく耳にします。「これまでになかった量の情報がとてつもない速さで拡散する現代において、情報の真偽を見分ける力が今まで以上に求められる」といった内容のことがよく言われていますね。一方でMiss Representation が示しているのは「情報の真偽の判断」ではなく「情報が再生産する権力構造の分析」としてのメディア・リテラシーの必要性だと思います。子どもたちのWell-beingを大切にするためにも、そして抑圧的な社会の状況を少しでも良いものにしていくためにも、こういった力がどうやったら身に付くのか考えたいところです。

今日はここまで。








2016年5月14日土曜日

冬学期の授業の振り返り

こんにちは、入澤です。

今日は先学期の授業の振り返り。
先学期は2つ授業をとりました。1つはCritical Pedagogy, Linguistic Diversity and Cultural Diversityという授業。もう1つはFoucault and the Health Professionという授業です。

Critica Pedagogy〜の方はオンラインの授業でした。自分としてはオンラインで授業をとるのは初めて。映像を見たりとかは特になく、リーディング課題をこなして掲示板上でディスカッションするというもの。個人的には前から勉強している分野だったので知識が深められて良かったなと思う反面、初学でこの授業とっても何が何だかわからんだろうと思ったり。実際、自分の他に日本人の学生で言語教育のコースに所属する人がその授業をとっていたけどチンプンカンプンだった様子。フレイレからジルーやマクラーレンといったCiritical Pedagogyの理論家のところまでマッハで進んでいたし、その後のフェミニストからの批判等もそこらへん学んだことない人にはそりゃ難しかろうと思います。

また、昨年の秋学期のCritical Pedagogyの授業はDepartment of Social Justice Education(SJE)で提供されていたコースだったのに対して、今回はCurriculum, Teaching and Learning(CTL)という自分が所属する学科で提供されるコースでした。SJEはOISEの中でも最も理論偏重、アカデミアで生きていくつもりの人たちが主に学んでいる学科なのに対してCTLは現役教員の人が多く学んでおり、実践に重きを置く学科です。そのため、コースの後半はCritical Pedagogyの実践についての論文を多く読みました。ただ、自分としてはちょっと物足りなかった感があります。実はCTLの中でも2つの学科にさらに分かれているのですが、この授業を提供する学科は言語教育についてコースを提供する学科なんです。そのため、言語的マイノリティに対する教育実践についての論文ばかり読みました。カミンズとかの論文が多かったかな。学ぶことは多かったですが勉強していて「あれ、これどこまでCritical Pedagogyなわけ?ちょっと違うくない?」と疑問に思っていました。まあ、もともとこのコースの創始者が今は名誉教授のカミンズ本人なので偏りは仕方ないのでしょうが。。。

あと、Critical Pedagogyの実践をまだしていない人たちの間であれやこれや実践のこと言っても実りのあるものにはあまりならないなぁと感じました(元も子もないこと書いた笑)。掲示板のディスカッションでよく起こっていたのが、1)「この論文に書いてあるような酷い事例、私の現場にも起こった」「俺も」「俺も」の傷の舐め合い、2)どんな議論していても最後は「教員養成課程でCritical Pedagogyをみんな勉強するようにならないとね」とまとめる教員養成課程への回答丸投げ、3)「政策、制度が変わらない限り難しいよね」という思考停止。特にコースの後半ではディスカッションにコミットするよりも自分で勝手に論文読んでいる方が楽しかったです。でも、1人Hip Hop Pedagogyの実践家の人がいて、その人とのディスカッションは楽しかった。その人のおかげで現場見学も出来たし。それについてはまた別に書きたいところ。

ただ、教授はめちゃめちゃ丁寧に一人ひとりの学生と連絡をとってくれるし、どんな質問にも答えてくれて助かりました。ディスカッションにもいいタイミングで介入してくれていたし、本当に努力されていたのは伝わりました。Critical Pedagogyの必読ブックリストを作成して欲しいと言ったら応じてくれたのはちょっと感動。

他にコースを通じて感じたのは大学院での学習のあり方、キャリアの積み方の多様化です。夫の仕事の都合でオランダに引っ越して現在はインターナショナルスクールで教師をしながらパートタイムの学生としてオンラインでコースワークをこなしている人がいて、こんな生き方もできるようになっているのだなぁとちょっと驚きました。一人ひとりの生き方が多様化している現在では大学院のあり方もそれに対応したものじゃないといけないのでしょうね。

それと、日本で英語教師をしている人とのディスカッションがとても面白かった。日本の言語的マイノリティの子どもたちの現状についてのびっくりするぐらい詳しいレポートを作成されていて感動しました。ネイティブカナディアンの子どもたちへの教育についてしっかりと考えているカナダの教育者にとってはアイヌ民族のことを歯牙にもかけない日本の教育のあり方は信じられないといった感じなのだなぁと改めて考えさせられました。

Foucault and the Health Professionの方は授業自体からはあまり収穫はなかったです。コースの名前からもわかる通り医学(特に精神医学)に関するフーコーの理論を用いた研究について学びました。教授も生徒も医学部の人ばかりでかなり異質な授業でした。自分としてはメソドロジーの部分をちゃんと身につけたいと思ってとった授業だったのですが、肝心な部分がとても適当。それは教授が悪いというよりかは日本と北米のアカデミアの性質の違いのようにも感じられました。Critical discourse Analysisとかは結構日本だと眉唾ものの研究手法といったところがあるのですが、北米だと普通に研究手法として受け止められているのでしょうか?あまり突っ込んだディスカッションもなくサッーと進んでしまい違和感ありあり。

僕の研究はフーコーの統治性をメソドロジーとして用いるものなので、そこについて詳しく知りたかったのですがあまり参考にはなりませんでした。なので、自分で文献調べてずっと勝手に勉強することに。。。期末の課題としてそこらへんをまとめて提出しました。結果としてまとまった時間をとって考えるべきことを考えることができたのでよしとするか、といった感じです。

留学での勉強はいつも情報を得ることの難しさ、日本とカナダのアカデミアの性質の違い、大学の制度の違いや理不尽な適当さなど色んなことに翻弄されます。油断するとすぐにストレスがたまる。修士を終えようとしてやっと色々とわかってきたことも多く悔しい思いもたくさんしています。ただ、大事なのはその場その場でベストを尽くすことなのかなぁと。残りの日々をちゃんと有効に使いたい。

それでは!






2016年5月13日金曜日

子どもの貧困②:3つの理論

どうも、入澤です。
今日は子どもの貧困を考える時に我々が意識的に、または無意識に依拠しているフレームワークについて書きたいと思います。これは昨年秋学期のEducational Activismの授業で扱った内容。教授自身が過去にトロント教育委員会の「公正と多様性」部門のトップとして教育分野での子どもの貧困対策を行っていた人だったので、授業も熱が入っていました。

教授は授業の冒頭で「最近気に入らないことがある。クモォーンがトロントに増えている。クモォーンで労働者階級の子どもたちを支援したらどうかっていう人がいるけどナンセンス!クモォーンは中産階級の子どもに標準を絞って開発されていて、労働者階級の子どもたちには合わないし、週1〜2回のクモォーンで教育成果の不平等に十分にアプローチできると思うな!」と言い放ちました。そして「そうだ!そうだ!」と叫ぶ現役教員のクラスメイト達。どうやら日本原産の学習教室のことを言っているらしく、僕としてはなんとも気まずい感じでした。。。

さて、本題。授業で紹介された理論は3つあります。生得的差異理論(innate-difference theory)、文化的欠損理論(cultural-deficit theory)、そして階級権力/支配理論(class power/dominance theory)です。順番に見ていきましょう。

1. 生得的差異理論(innate-difference theory)




生得的差異理論では不平等の原因を子どもたち自身の中に見出します。つまり、貧困状態に陥る人間は知的に生まれつき劣っているとする考え方です。一番わかりやすいのはIQでしょう。生まれもった不変の知性=IQという尺度があり、その値が低い人間は否応なく教育成果は低くなり、将来の年収や階級も低くなってしまうと想定されます。この考え方で不平等を説明するものとしてBell Curve (Murray and Herrnstein, 1994)という本もあります。



今日ではこの理論は支持されず、批判されています (例えば、Kincheloe et al., 1997)。そもそも科学的にも信用できず、人種差別的、反民主的だという批判が多くよせられているようです。この理論は1)知性は特定の尺度で評価でき、知性は人により生まれつき差がある、2)生まれつきの知性の差は教育成果の差であり、それは経済的成功の差につながっている、と示すことで、3)教育成果の差が生まれること、階級差が生じることは避けようがないことだ、という認識を肯定してしまっています。さらに4)知性が劣っている=社会的地位が低く貧しい、社会的地位が低く貧しい=知性が劣っているという誤った固定観念を世の中に広めることにもなってしまいます。

2. 文化的欠損理論



対して、文化的欠損理論は今でも比較的広く支持されている理論です。この理論では子どもたちが学校で問題を多く抱えるのは生まれついての知性が原因ではなく、子どもたちが属する社会集団の特性によるものだとされます。つまり、(劣った)遺伝か(劣った)環境か?で考えると環境だよと答えるということですね。この理論では、経済的に困難を抱える家庭やコミュニティの「欠陥」のせいで、子どもたちが知識、スキル、習慣、その他学校で成功するために必要な文化的な規範を欠いてしまっていると考えます。子どもたちへの教育に価値を置かない「貧困の文化」(Smaller et al., 1992)の存在を想定することはその代表例です。また、Ruby Payneという人が広めている教員養成プログラムがあるのですが、それは社会的規範から逸脱した貧困層を「矯正」する教員を育てることを目的としており、この理論に依拠したアプローチの例といえます。

さて、この理論もまた批判さています。Gorski(2008)は多くのデータを参照しながら低所得世帯の親が中産階級の親と同じように子どもたちの勉強に価値を置いていることを明らかにしています。



文化的欠損理論は低所得世帯が教育に関心がない等の固定観念を生み、広めてしまいます。実際、この固定観念は労働倫理の無さといった他の固定観念とも結びついて、「弱者叩き」の様相を呈しています。教育に必要な様々な資源へのアクセスが限られてしまっているという構造的な問題に目を向けることなく、低所得世帯=歪んだ倫理観、劣った文化を持っている奴らという固定観念が一人歩きしてしまう。社会的、経済的な構造の問題に目を向けることなく、社会的集団に特性を見出しそれに貧困の原因を求めるという本質主義的な態度は結局のところ生得的差異理論と変わらないということなのでしょう。

文化的欠損理論からの貧困へのアプローチは「欠損」の「矯正」になることも問題です。これ、往々にしていい結果を生みません。例えば、「貧困世帯の親は子どもとのコミュニケーション量が少ないというデータがあり、また共感的なコミュニケーションよりも威圧的なコミュニケーションが多い傾向にある。これは子どもたちの育ちに悪影響だ。なので、貧困世帯の親に子どもとのコミュニケーションの大事さ、方法を伝える講座を開こう」となったとします。この考えの中では共働きの両親の時間的そして精神的余裕の無さには何も配慮されていません。また、ここでの子育てのイメージは中産階級核家族による子育てのあり方が前提になっているかもしれません。つまり、お父さんとお母さんがいて、主にその2人が子育てに参加している家庭です。それぞれの家庭が連携し合いコミュニティをつくり、子どもたちがそのコミュニティの中でたくましく育っているなどの可能性は検討されていません。なので、貧困世帯の親からすると、不当に自分たちを劣った存在であると見なされ、尊厳を傷つけられたと感じるということが起こります。そうすると、その講座にはきっと人は集まらないでしょう。ですが、主催者側はきっと「やっぱりあいつらは子育てに配慮しない奴らだ」と思ってしまいます。そして一般に流布している言説が肯定されてしまいます。「欠損」の「矯正」のアプローチで臨むとたいてい失敗して、そして残念なことに「欠損」のイメージだけは強くなったりする。

3. 階級権力/支配理論



さて、最後は階級権力/支配理論です。日本語訳がこなれてませんね。。。普通に権力理論とか言った方がわかりやすそう。この理論は批判的教育研究の出番といったところでしょうか。この理論は支配階級(より多くの権力を持つグループ)が政治経済的な権力の不均衡、不正な構造を作り上げることによって社会階層を固定化する方法に焦点を当てます。権力理論は学校や教育システムが社会経済的な権力を持った一部の人間の利益に適うように形作られ、多くの生徒のwell-beingを犠牲にしていると主張します。ここでの基本的な前提は、貧困世帯の子どもたちが学校で困難を抱えるのは、彼らに「欠陥」があるからではなく、彼らと彼らの属する社会集団がより裕福な子どもたちと社会集団に比べて社会への影響力が弱く特権に与れていないからだとされます。

大切なのは学校・既存の教育システムを「当然のもの」「所与のもの」と考えず、構造自体を問い直す姿勢だと思います。権力の不均衡は、正規のカリキュラム(学習計画、教師の指導法、教科書などの教材)、隠れたカリキュラム、評価・選抜のあり方など全体に反映されています。これらがどう不平等を生み出しているか読み解き、変革可能性を探るのが大事。

まとめ

長くなったので一旦まとめ。

生得的差異理論、文化的欠損理論では社会的に弱い立場にある子どもたちと彼らが属する社会集団に彼らが学校で成功できない理由が見出されていました。「IQが低い」であるとか「あいつらは倫理観に欠ける」「あいつらは教育に関心がない」とか。ここでは特定の評価尺度が恣意的に選ばれているのですが、社会の多くの人はそれを当然のものだと感じて疑っていません。こういった評価尺度に寄りかかりながら「優れた人」が「劣った人」に足りないものをいかに足すかが考えられます。ただ、構造的な問題は見過ごされてしまいます。

一方で、権力理論の方は構造の方を問うものです。既存の学校教育は「両親が2人いること」「日本語が母語であること」「日本国籍を有すること」「ヘテロセクシャルであること」「中産階級以上であること」が前提とされがちです。こういった恣意的な前提から形作られる階層構造を疑う必要があります。「困難を抱える子どもたち」とかよく聞くフレーズなのですが、子どもたちに困難がひっついてるのではないですからね。なんか違う。本来は「困難を強いる社会に生きる子どもたち」とか言いたいところですね。

コメント

長々書いてきましたが、自分の考えたことを最後に書きたいと思います。

僕はNPOの学習支援事業の責任者を学生の頃に3年ぐらいやっていました。葛飾区や足立区で主に生活保護受給世帯の子どもたちを対象に学習支援をやる中で色んな子どもたちや保護者に接してきました。子どもたちの中には明らかに幼いときから半ば育児放棄の状態にあり、テレビゲームをベビーシッターに育ってきたという感じの子どもたちもいました。そして、彼らの多くが知的な発達の遅れを示していました。そういう子どもたちを見ているとどうしてもIQを思い浮かべてしまいますし、それが学力向上の限界をつくっているのを実感してしまいます。また、子どもたちが幼い時に介入することが大事だという最近よく言われているようなことも当てはまると思えます。知性が劣っているから社会的地位が低く貧しいというような固定観念は絶対おかしいと思いますが、知的発達についての理解と配慮は絶対に必要です。社会構造の歪みをいかに変えていくのか考えながら、一人ひとりの子どもたちの発達に目をむけないといけません。

また、当時行っていた保護者面談の時に綾小路翔風の「今時こんなリーゼントありか?」と思ってしまう様な髪型のおじさんが殴り込んできて「俺はお勉強なんて嫌いなんだよね」と机を蹴飛ばされながら言われたことがありました。ほとんどこういった保護者はいないのですが、一度でもこういうことがあると社会が作り上げた既存のイメージ(暴力的なヤンキーの父親がめちゃめちゃな子育てしてるから子どもが〜〜になるんや)とつなげて子どもたちの状況を簡単にわかった気になってしまうことが起こりうる。そして何より問題なのが、自分としてはこういう事例は少ないとたとえ理解していても、説明会などでよその人たちに子どもの貧困の問題の根深さを訴える時にどうしてもこういう事例を取り上げてしまう。なぜなら社会の中で既に形作られたイメージを利用した方が相手に訴えやすいからなんですよね。子どもの貧困の問題を多くの人に伝えたいけれど、そのためには偏った文化的欠損理論の立場に立たないと伝わらない、見向きもされないというジレンマがあります。子どもの貧困の現場に関わる人たちは文化的欠損理論に知らず知らず立たないように注意しながら世の中への発信の方法を考えないといけないのではないでしょうか?前回(だいぶ前や。。。)書いた記事で紹介したDannyの劇などはそういった方法のいい事例だと思います(http://mitsuru326irisawa.blogspot.ca/2016/02/blog-post_20.html)。

本当に長くなってしまいました。
これからも子どもの貧困について様々な施策が実施されると思いますが、どういうフレームワークでもって考えられているのかを吟味したいですね。

次に子どもの貧困について書く時はお金がどれぐらい、どういう風に使われているかとか書きますね。
それでは。


























2016年5月9日月曜日

近況報告

どうもお久しぶりです、入澤です。
幾度目かの挫折の末、また立ち上がりました。もはや「次こそは定期的に投稿するぞ」的な安い決意表明なんてしません。ただ「出来る範囲で頑張ります」と言うに留めます。

出来る範囲で頑張ります。

さて、久しぶりの投稿なので近況報告を。
先学期の2つの授業を無事にこなし、卒業まで残りの授業は1つとなりました。右も左もわからないままトロントに突っ込んだのがもう2年近く前だなんてちょっと信じられません。ありきたりな表現ですが、この2年でとても大切なことをたくさん学んだ気がします。自分の世界観を揺さぶり人生を変えるような学びの連続でした。自分の研究の方向性がバシッと定まって進む方向が明確になったのも良かったですが、何よりも社会正義のために生きる多くの人との出会いが財産になりました。彼らのマインドセットが落としこまれたことに何よりの価値があります。

最後の授業はAnti-Oppression Education in School Settingsという授業です。Anti-Oppressionとは日本語にすると「反抑圧」。つまり、日常的かつ構造的な差別の問題をどう捉え、どう変革していくかということを勉強していきます。反抑圧的実践は海外のソーシャルワークの世界で重要性が指摘され近年注目されていますが、それは教育の世界でも同じ。OISEの教師教育プログラムにも反抑圧的実践を学ぶ授業があり、去年から聴講したりしていました。反抑圧的実践は今まで勉強していたクリティカル・ペダゴジーとも関係しており、理解を深めたかった領域です。有終の美を飾るべく頑張ります。

あと、最近はトロントの街をうろつきBlack Lives MatterをはじめとしたSocial Movementの現場や面白いプログラムを提供するコミュニティ・センターに顔を出したりしています。トロントで研究していた恩師の先生が帰国間際で色々と見えてくると仰っていたのですが、なんだかその通りになってきました。自分の興味を引く色々なことが見えてきて楽しいです。残りの期間でなるべく多くの場所に顔を出したいところ。

今日はリハビリなのでここまで。では!














2016年2月28日日曜日

イノベーションを起こせて、批判的な思考ができる、先生の言った通りに行動する人を育てる教育について

どうも、入澤です。
今日は以下の画像について考えたこと。

↓これ日本の教育のこと言ってるんですよね。わかります。 「はい、先生はみんなに自立して、イノベーションを起こせて、批判的な思考ができる、先生の言った通りに行動する人になってもらいたいと思います!」


上の画像と文章をツイートしたところ400件ほどリツイートされました。大拡散というわけではないですが、一週間経ってもジワジワリツイートされ続けています。もらったリプライの中で多かったのが教師の言葉の矛盾が「あるある」だよね、という指摘。ただ、私にはこの画像は「相矛盾するメッセージを発するダメな大人」以上のものを伝えているように思えます。この画像が伝えているのは正規のカリキュラムと隠れたカリキュラムの矛盾ではないでしょうか?

正規のカリキュラムは学校や教師が意図する生徒が授業の中で学ぶ内容のことです。年間、月次、週次の学習計画、使用する教科書や副教材、そして日々の指導案の中に生徒の学習内容は事前に準備されています。ですが、生徒が日々学校で学ぶことはそれだけではありません。学校の中の人間関係、行事、生徒の1日の過ごし方の定められ方、どのような行動が禁止され何が望ましいとされるのか、こういった全てが学校文化を作り上げ、生徒はそこから意識せずとも多くのことを学んでいます。この意識されない学びが隠れたカリキュラムと呼ばれるものです。

先生がどれだけ「クラス皆仲良く」と叫んだところで、テストによるランク付けが行われていたら、生徒はきっと先生の言うことを表面的に受け止めて「卒なく振る舞う」ことを学ぶでしょう。正規のカリキュラムと隠れたカリキュラムの両輪で考えないといけません。

さて、画像に戻りましょう。先生は「自立して、イノベーションが起こせて、批判的な思考が出来る」ようになることを生徒に求めています。この時点で生徒ー教師の関係は先生が生徒に対して一律に目標を掲げる権威的なものとして描かれていることがわかります。先生は生徒一人ひとりの学びの特性を把握してそれを伸ばしていこうなんて微塵も思っていなさそうです。さらに、先生はスーツを着て無表情に直立不動、一方生徒は姿勢正しく座っているという構図がこの関係性をさらに強固なものにしています。また、イノベーションや批判的な思考という21世紀の学びを掲げている割に、昔ながらの黒板、座席の配置が描かれており、これらの「最先端」な言葉の響きを空虚なものにしています。生徒はきっと、隠れたカリキュラムとして、先生が掲げる何かよく分からない新しい教育目標に自分を近づけていくことを学ぶのでしょう。「先生の言った通りの行動ができる人になってもらいたいと思います」という言葉だけが生徒の耳に残ったはずです。

さて、日本の学校文化、そこから子どもたちが学ぶ隠れたカリキュラムはどのようなものでしょうか?それは正規のカリキュラムで目指されているものとどれぐらい乖離しているでしょうか?

中学校とかどうでしょうね。係活動、委員会活動を通じて学校という大きな組織の一部分を担う大切さを教えられ、先輩後輩関係から年功序列を学び、本来的に何のためにやるのかわからない合唱コンクールなりのイベントに向けてクラス一丸となって頑張ることの美徳を叩き込まれ、作り込まれた感動に酔いしれるための態度を身につける。こういうのが隠れたカリキュラムじゃないですか?これって、イノベーションや批判的思考からめちゃめちゃ遠いですよね。ていうか20世紀のザ・企業文化って感じ。

正規のカリキュラムこねくりまわるだけじゃなくて、隠れたカリキュラムを把握して時代に合ったように変えること考えたいですよね。

今日はここまで。




2016年2月27日土曜日

カナダ・オンタリオ州政府が低所得世帯の高等教育の学費を無料に!日本の学生も声を上げればきっと変えられるはず!

今日はニュースの紹介。
カナダ・オンタリオ州政府が年間所得50,000$以下の世帯を対象に、高等教育の学費を無料にすると発表しました。さらに、中産階級出身の学生にも奨学金の拡充が検討され、かつ多くの人にとって複雑な奨学金のシステムをわかりやすいシンプルなものにすることも目指されているようです。

http://goo.gl/mWkPDT
http://goo.gl/58hjPZ

高等教育の学費は過去20年で3倍にも膨れ上がっており、多くの学生を苦しめてきました。今回の決定はそういった流れを大きく変える可能性を持つものです。

記事の中では、「今回の決定は、政府が学生達が鳴らす警鐘を聞き続けてきた結果だ」と述べられています。そうです!この決定は天から降ってきたものではありません。オンタリオ州の大学生達、その家族達が声を大にして叫び続けてきた結果なのです。

YouTubeにも動画があったのでちょっと紹介。



日本だと学費を下げろと学生が声を上げることを想像するのはちょっと難しい気もしますが、世界の学生は声を上げ続けています。

それにしても、今回の低所得世帯の学費無償化の決定はきっと他の州にも影響を与えるのだろうなぁと思います。そもそも大学生の学費値上げ等への抵抗で有名なのは実はケベック州なんですよね。ケベックの学生達の闘いの歴史を学生自ら説明してくれている動画があったのでそちらも紹介します。テンポが良くて面白いですよ。


州政府は毎回意見曲げねえって態度示すのに結局学生の声聞いてますね。ツンデレか。
いや、そうじゃなくて、学生達がそれだけ強い姿勢で声を上げ続けているのが大事なのでしょう。

高騰する学費で破産?大学授業料が払えない 奨学金なしに大学に行けない世帯が半数以上


↑一方で、日本はこういう状況なのですね。

さて、高等教育の学費を下げることは不可能なのでしょうか?国はそんな余裕はないと言うでしょうが、アメリカに媚びるのにいくら使っとるんやという話なわけで、出そうと思えば出せるはずです。ただ、どんどん少子化が進み大学生や子育て世帯の意見なんて気にする必要がなくなっているというのが大きいのでしょう。もしここで黙っていたらきっとより一層風向きは悪くなっていくのではないでしょうか?今回のオンタリオ州のニュースは声を上げ、訴え続けることの重要さを伝えてくれているように感じました。

今日はここまで。















2016年2月20日土曜日

子どもの貧困①:インターセクショナリティ、エクイティ、異常/正常

はい、どうも入澤です。
今日は"One in Six: Education and Poverty in Ontario"(6人に1人、オンタリオの教育と貧困)という動画の紹介をしつつ、子どもの貧困について考えます。この動画はオンタリオ州の小学校教員組合が作成したものです。動画は英語で30分ほど。多くの人に見て欲しいですが、見なくてもなんとなくわかるように頑張って書きます。


動画の中では母子家庭のお母さん、移民のお父さん、ネイティブカナディアンの男性、オンタリオ州教育省の女性、地域の活動家と様々な人が子どもの貧困について、当事者として、もしくは子どもの貧困対策に関わる人間として語っています。




そして、もう一つ大事なのは動画の中で"DANNY, KiNG OF THE BASEMENT"(ダニー、地下室の王様)という劇の紹介が行われていること。この劇は子どもの貧困問題の啓発を目的として作製されました。劇の中で、ダニーは母親が仕事を変える度に引っ越しを余儀なくされます。しかし、ダニーは自分を「引っ越しの王様」と名乗り、持ち前の想像力を武器に他の子どもたちを巻き込み、引っ越し先ではいつも素敵な友達をつくります。たくましく生きるダニーの姿は観客が持つ貧困の固定観念を揺さぶります。




この劇はオンタリオ州の様々な地域の多くの学校の中で上演され、子どもたちに貧困問題を考える機会を提供しました。動画の中でも舞台俳優が観客の子どもたちに様々な問いを投げかけている姿が映されています。



この劇が学校で上映されるようになった背景にはオンタリオ州小学校教員組合(ETFO)の尽力がありました。まず、ETFOが「教育と貧困」というプロジェクトを企画します。「ダニー」の劇はこのプロジェクトの一環です。ETFOはこのプロジェクトの効果測定などの研究面での援助をオンタリオ教育研究所の教授に要請、受け入れられます。そして、ETFOはこのプロジェクトの実施のための資金面での援助を教育省に願い出て予算を獲得します。こうして教員組合-大学-教育省のパートナーシップが実現し、プロジェクトが実施されることになりました。このお話は大事なのでまた別途取り上げたいと思います(こればっかり言ってる気がする)。ちなみに、なぜ大事かというと「ここで実現しているプロフェッショナリズムはどんなものか?」と問うことが我々が持つプロフェッショナリズムのイメージを揺るがせてくれるからです。

さて、英語の30分以上ある動画なんて見る気しねぇよという人のために僕が印象に残ったところを挙げていきたいと思います。

1. 貧困の多様さ、ニーズの多様さ、インターセクショナリティ

動画の中では移民や母子家庭、ネイティブカナディアンそして地方といった多様な、それぞれ異なる複雑な貧困のあり方が取り上げられています。特に印象に残ったのが、ネイティブカナディアンの男性が自分は学習障害だと言っていたところ。彼は自分のコミュニティでは普段ネイティブカナディアンの部族の言葉で話していたのですが、当時の学校では英語で話すことが求められました。英語もままならず、文化的な差異から疎外感を常に感じている状態でさらに学習障害。彼は「バカだ」と笑われ、適切な教育的な対応を受けられないまま「排除された」と言っています。ネイティブカナディアンのコミュニティは恒常的な貧困状態にありますが、彼の抱えていた問題は貧困の問題に留まりません。

動画には貧困の問題を階層の問題としてだけ考えるのではなく、多様で複雑なアイデンティティの重層性から考える態度が表れています。現在の社会で生きていくには不利なアイデンティティをいくつも重ねて抱えている人であっても幸せに生きていけるようにするにはどうしたらいいのか?を常に考えるべきですよね。


このアイデンティティの重層性はインターセクショナリティ(Intersectionality)という言葉で表現されています。インターセクションは交差点のことですね。アイデンティティがいつくも重なる交差点に立って社会のあり方、教育のあり方を考えたいです。このインターセクショナリティは超超重要なのでまた今度書きます(本日2回目ですね)。ちなみに上の図は自分自身のアイデンティティの重層性を考える時によく使われるパワーフラワーという表です。


2. Equity(結果の平等)と教育

オンタリオ教育省の女性が語っていますが、「どんな背景の子どもも教室ではみんな同じ」といった素朴な考え方は捨てられなければなりません。大切なのはそれぞれの違いを認め、ニーズを認識し、そのニーズにそった対応を教師が行うこと。これがEquity(結果の平等)に基づいた教育のあり方です。

日本は機会の平等=Equalityは配慮されますが、結果の平等=Equityはイマイチ重視されていません。「同じ授業を受けているから平等に学んでいる」というのは本当でしょうか。なんで中学生になっても九九ができない子どもがいるのでしょうか。教育格差による将来の経済格差を懸念するなら、結果の平等を実現するために何を変えないといけないのか問い続けないといけません。学校外の教育機会に頼ることがあるべき姿でしょうか?ていうか、そもそも結果の平等にどこまで真剣ですか?貧困線超えたら一安心になってませんか?生活保護受給世帯の中学生をとりあえず高校進学させたら平等ですか?何をどこまで目指してますか?

そして、Equity=結果の平等達成のためには教育の領域からの支援だけでは当然限界があります。今日は詳しく書けませんが、僕がいる子どもの貧困率3割のトロントでは非常に様々な支援がされています。ここらへんはまた次の機会に書きたいと思います(3回目や。。。)

3. 貧困のスティグマを避けながら非貧困/貧困=正常/異常という区分を撹乱する

動画の中でも言及されていますが、オンタリオ州の多くの学校で朝食を支給するプログラムを実施しています。これは子ども達がお腹をすかせたまま学校にやってくることがあるからです。オンタリオ教育省の女性が言っていますが、スティグマ、つまりどの子どもが貧困状態にあるかが明るみに出てレッテルを貼られることを避けるために、この朝食の時間はどんな子どもも朝食を食べられる和やかな時間であるべきだとされています。


日本でもこの貧困のスティグマの問題は真剣に検討され、子どもたちに貧困のスティグマがつかないように配慮されていると思います。ただ、ここで問題なのは貧困のスティグマが子どもたちに付されるのを避けようと神経質になればなるほど、努力すればするほど、貧困が「何か異常なもの」として立ち現れてくるということです。

動画の中では、劇作家の男性が「子どもたちは貧困を何かいけない病気のように捉えている。貧困状態にある人が一日中、朝から晩まで不幸のどん底のように思ってしまっているが実際はそうではない。」と言っています。

この貧困=異常、病理という固定化した認識をずらすために、オンタリオ教育省の女性は「私自身が移民としてこの国に来た。たくさんの貧困の中で生きる子どもたちのストーリーに触れてきたが、彼らはみなリジリエント、つまり柔軟でしなやかな生きる力に満ちている」と言っています。「ダニー」の劇中でダニーが家庭のお金を管理しているシーンが映し出されますが、劇作家の男性は「観客の子どもたちはダニーが大人のようにお金を管理し、母親にお金を渡している様子を見てとても驚きます。」とも言っています。

貧困を正当化するための言説になっては絶対にいけませんが、貧困の中で子どもが生きるために身につける力があることを無視してはいけないのではないでしょうか。そして、難しい家庭環境の子どもたちも学校で楽しく友達と遊んだり、おしゃべりしたりしているという当たり前のことを認識するべきではないでしょうか。子どもの貧困という問題を社会の多くの人が認識していないからこそ啓発の努力が求められます。しかし、貧困状態を病理のように扱っていては、貧困状態にある人を萎縮させ、その人たちが声をあげることが難しくなります。また、病理の様なイメージが流布することで排除の傾向を強めることも起こりえます。スティグマを避けるだけではなく、常に我々が何を普通だと考えているのか、何を異常と見なしているのかに敏感であるべきです。子どもの貧困の現場に関わる人は特にこのことを意識し、この難しさと向き合う必要があるのではないでしょうか。

さて、色々書きましたが、最後にもう一つだけ。
日本の子どもの貧困対策って「子どもの貧困は社会全体で○○円の損失!みんなで考えよう子どもの貧困!」とか言われてますが、「経済的損失もわかるけど、まずそもそも人権的にNoなんだよ。お前の心が一番貧困だわ。」とよく思います。6年毎に国連から勧告を受けているので(めっちゃアカンやん。なんで改善せえへんのや。)、近々また子どもの権利について社会全体の配慮が無さ過ぎると言われるはずです。その機会をちゃんと有効利用して、子どもの貧困の問題も「子どもの権利」の観点から訴えていきたいですね。

ではでは、今日はこのへんで。