はい、どうも入澤です。
今日は"One in Six: Education and Poverty in Ontario"(6人に1人、オンタリオの教育と貧困)という動画の紹介をしつつ、子どもの貧困について考えます。この動画はオンタリオ州の小学校教員組合が作成したものです。動画は英語で30分ほど。多くの人に見て欲しいですが、見なくてもなんとなくわかるように頑張って書きます。
VIDEO
動画の中では母子家庭のお母さん、移民のお父さん、ネイティブカナディアンの男性、オンタリオ州教育省の女性、地域の活動家と様々な人が子どもの貧困について、当事者として、もしくは子どもの貧困対策に関わる人間として語っています。
そして、もう一つ大事なのは動画の中で"DANNY, KiNG OF THE BASEMENT"(ダニー、地下室の王様)という劇の紹介が行われていること。この劇は子どもの貧困問題の啓発を目的として作製されました。劇の中で、ダニーは母親が仕事を変える度に引っ越しを余儀なくされます。しかし、ダニーは自分を「引っ越しの王様」と名乗り、持ち前の想像力を武器に他の子どもたちを巻き込み、引っ越し先ではいつも素敵な友達をつくります。たくましく生きるダニーの姿は観客が持つ貧困の固定観念を揺さぶります。
この劇はオンタリオ州の様々な地域の多くの学校の中で上演され、子どもたちに貧困問題を考える機会を提供しました。動画の中でも舞台俳優が観客の子どもたちに様々な問いを投げかけている姿が映されています。
この劇が学校で上映されるようになった背景にはオンタリオ州小学校教員組合(ETFO)の尽力がありました。まず、ETFOが「教育と貧困」というプロジェクトを企画します。「ダニー」の劇はこのプロジェクトの一環です。ETFOはこのプロジェクトの効果測定などの研究面での援助をオンタリオ教育研究所の教授に要請、受け入れられます。そして、ETFOはこのプロジェクトの実施のための資金面での援助を教育省に願い出て予算を獲得します。こうして教員組合-大学-教育省のパートナーシップが実現し、プロジェクトが実施されることになりました。このお話は大事なのでまた別途取り上げたいと思います(こればっかり言ってる気がする)。ちなみに、なぜ大事かというと「ここで実現しているプロフェッショナリズムはどんなものか?」と問うことが我々が持つプロフェッショナリズムのイメージを揺るがせてくれるからです。
さて、英語の30分以上ある動画なんて見る気しねぇよという人のために僕が印象に残ったところを挙げていきたいと思います。
1. 貧困の多様さ、ニーズの多様さ、インターセクショナリティ
動画の中では移民や母子家庭、ネイティブカナディアンそして地方といった多様な、それぞれ異なる複雑な貧困のあり方が取り上げられています。特に印象に残ったのが、ネイティブカナディアンの男性が自分は学習障害だと言っていたところ。彼は自分のコミュニティでは普段ネイティブカナディアンの部族の言葉で話していたのですが、当時の学校では英語で話すことが求められました。英語もままならず、文化的な差異から疎外感を常に感じている状態でさらに学習障害。彼は「バカだ」と笑われ、適切な教育的な対応を受けられないまま「排除された」と言っています。ネイティブカナディアンのコミュニティは恒常的な貧困状態にありますが、彼の抱えていた問題は貧困の問題に留まりません。
動画には貧困の問題を階層の問題としてだけ考えるのではなく、多様で複雑なアイデンティティの重層性から考える態度が表れています。現在の社会で生きていくには不利なアイデンティティをいくつも重ねて抱えている人であっても幸せに生きていけるようにするにはどうしたらいいのか?を常に考えるべきですよね。
このアイデンティティの重層性はインターセクショナリティ(Intersectionality)という言葉で表現されています。インターセクションは交差点のことですね。アイデンティティがいつくも重なる交差点に立って社会のあり方、教育のあり方を考えたいです。このインターセクショナリティは超超重要なのでまた今度書きます(本日2回目ですね)。ちなみに上の図は自分自身のアイデンティティの重層性を考える時によく使われるパワーフラワーという表です。
2. Equity(結果の平等)と教育
オンタリオ教育省の女性が語っていますが、「どんな背景の子どもも教室ではみんな同じ」といった素朴な考え方は捨てられなければなりません。大切なのはそれぞれの違いを認め、ニーズを認識し、そのニーズにそった対応を教師が行うこと。これがEquity(結果の平等)に基づいた教育のあり方です。
日本は機会の平等=Equalityは配慮されますが、結果の平等=Equityはイマイチ重視されていません。「同じ授業を受けているから平等に学んでいる」というのは本当でしょうか。なんで中学生になっても九九ができない子どもがいるのでしょうか。教育格差による将来の経済格差を懸念するなら、結果の平等を実現するために何を変えないといけないのか問い続けないといけません。学校外の教育機会に頼ることがあるべき姿でしょうか?ていうか、そもそも結果の平等にどこまで真剣ですか?貧困線超えたら一安心になってませんか?生活保護受給世帯の中学生をとりあえず高校進学させたら平等ですか?何をどこまで目指してますか?
そして、Equity=結果の平等達成のためには教育の領域からの支援だけでは当然限界があります。今日は詳しく書けませんが、僕がいる子どもの貧困率3割のトロントでは非常に様々な支援がされています。ここらへんはまた次の機会に書きたいと思います(3回目や。。。)
3. 貧困のスティグマを避けながら非貧困/貧困=正常/異常という区分を撹乱する
動画の中でも言及されていますが、オンタリオ州の多くの学校で朝食を支給するプログラムを実施しています。これは子ども達がお腹をすかせたまま学校にやってくることがあるからです。オンタリオ教育省の女性が言っていますが、スティグマ、つまりどの子どもが貧困状態にあるかが明るみに出てレッテルを貼られることを避けるために、この朝食の時間はどんな子どもも朝食を食べられる和やかな時間であるべきだとされています。
日本でもこの貧困のスティグマの問題は真剣に検討され、子どもたちに貧困のスティグマがつかないように配慮されていると思います。ただ、ここで問題なのは貧困のスティグマが子どもたちに付されるのを避けようと神経質になればなるほど、努力すればするほど、貧困が「何か異常なもの」として立ち現れてくるということです。
動画の中では、劇作家の男性が「子どもたちは貧困を何かいけない病気のように捉えている。貧困状態にある人が一日中、朝から晩まで不幸のどん底のように思ってしまっているが実際はそうではない。」と言っています。
この貧困=異常、病理という固定化した認識をずらすために、オンタリオ教育省の女性は「私自身が移民としてこの国に来た。たくさんの貧困の中で生きる子どもたちのストーリーに触れてきたが、彼らはみなリジリエント、つまり柔軟でしなやかな生きる力に満ちている」と言っています。「ダニー」の劇中でダニーが家庭のお金を管理しているシーンが映し出されますが、劇作家の男性は「観客の子どもたちはダニーが大人のようにお金を管理し、母親にお金を渡している様子を見てとても驚きます。」とも言っています。
貧困を正当化するための言説になっては絶対にいけませんが、貧困の中で子どもが生きるために身につける力があることを無視してはいけないのではないでしょうか。そして、難しい家庭環境の子どもたちも学校で楽しく友達と遊んだり、おしゃべりしたりしているという当たり前のことを認識するべきではないでしょうか。子どもの貧困という問題を社会の多くの人が認識していないからこそ啓発の努力が求められます。しかし、貧困状態を病理のように扱っていては、貧困状態にある人を萎縮させ、その人たちが声をあげることが難しくなります。また、病理の様なイメージが流布することで排除の傾向を強めることも起こりえます。スティグマを避けるだけではなく、常に我々が何を普通だと考えているのか、何を異常と見なしているのかに敏感であるべきです。子どもの貧困の現場に関わる人は特にこのことを意識し、この難しさと向き合う必要があるのではないでしょうか。
さて、色々書きましたが、最後にもう一つだけ。
日本の子どもの貧困対策って「子どもの貧困は社会全体で○○円の損失!みんなで考えよう子どもの貧困!」とか言われてますが、「経済的損失もわかるけど、まずそもそも人権的にNoなんだよ。お前の心が一番貧困だわ。」とよく思います。6年毎に国連から勧告を受けているので(めっちゃアカンやん。なんで改善せえへんのや。)、近々また子どもの権利について社会全体の配慮が無さ過ぎると言われるはずです。その機会をちゃんと有効利用して、子どもの貧困の問題も「子どもの権利」の観点から訴えていきたいですね。
ではでは、今日はこのへんで。