2016年2月28日日曜日

イノベーションを起こせて、批判的な思考ができる、先生の言った通りに行動する人を育てる教育について

どうも、入澤です。
今日は以下の画像について考えたこと。

↓これ日本の教育のこと言ってるんですよね。わかります。 「はい、先生はみんなに自立して、イノベーションを起こせて、批判的な思考ができる、先生の言った通りに行動する人になってもらいたいと思います!」


上の画像と文章をツイートしたところ400件ほどリツイートされました。大拡散というわけではないですが、一週間経ってもジワジワリツイートされ続けています。もらったリプライの中で多かったのが教師の言葉の矛盾が「あるある」だよね、という指摘。ただ、私にはこの画像は「相矛盾するメッセージを発するダメな大人」以上のものを伝えているように思えます。この画像が伝えているのは正規のカリキュラムと隠れたカリキュラムの矛盾ではないでしょうか?

正規のカリキュラムは学校や教師が意図する生徒が授業の中で学ぶ内容のことです。年間、月次、週次の学習計画、使用する教科書や副教材、そして日々の指導案の中に生徒の学習内容は事前に準備されています。ですが、生徒が日々学校で学ぶことはそれだけではありません。学校の中の人間関係、行事、生徒の1日の過ごし方の定められ方、どのような行動が禁止され何が望ましいとされるのか、こういった全てが学校文化を作り上げ、生徒はそこから意識せずとも多くのことを学んでいます。この意識されない学びが隠れたカリキュラムと呼ばれるものです。

先生がどれだけ「クラス皆仲良く」と叫んだところで、テストによるランク付けが行われていたら、生徒はきっと先生の言うことを表面的に受け止めて「卒なく振る舞う」ことを学ぶでしょう。正規のカリキュラムと隠れたカリキュラムの両輪で考えないといけません。

さて、画像に戻りましょう。先生は「自立して、イノベーションが起こせて、批判的な思考が出来る」ようになることを生徒に求めています。この時点で生徒ー教師の関係は先生が生徒に対して一律に目標を掲げる権威的なものとして描かれていることがわかります。先生は生徒一人ひとりの学びの特性を把握してそれを伸ばしていこうなんて微塵も思っていなさそうです。さらに、先生はスーツを着て無表情に直立不動、一方生徒は姿勢正しく座っているという構図がこの関係性をさらに強固なものにしています。また、イノベーションや批判的な思考という21世紀の学びを掲げている割に、昔ながらの黒板、座席の配置が描かれており、これらの「最先端」な言葉の響きを空虚なものにしています。生徒はきっと、隠れたカリキュラムとして、先生が掲げる何かよく分からない新しい教育目標に自分を近づけていくことを学ぶのでしょう。「先生の言った通りの行動ができる人になってもらいたいと思います」という言葉だけが生徒の耳に残ったはずです。

さて、日本の学校文化、そこから子どもたちが学ぶ隠れたカリキュラムはどのようなものでしょうか?それは正規のカリキュラムで目指されているものとどれぐらい乖離しているでしょうか?

中学校とかどうでしょうね。係活動、委員会活動を通じて学校という大きな組織の一部分を担う大切さを教えられ、先輩後輩関係から年功序列を学び、本来的に何のためにやるのかわからない合唱コンクールなりのイベントに向けてクラス一丸となって頑張ることの美徳を叩き込まれ、作り込まれた感動に酔いしれるための態度を身につける。こういうのが隠れたカリキュラムじゃないですか?これって、イノベーションや批判的思考からめちゃめちゃ遠いですよね。ていうか20世紀のザ・企業文化って感じ。

正規のカリキュラムこねくりまわるだけじゃなくて、隠れたカリキュラムを把握して時代に合ったように変えること考えたいですよね。

今日はここまで。




2016年2月27日土曜日

カナダ・オンタリオ州政府が低所得世帯の高等教育の学費を無料に!日本の学生も声を上げればきっと変えられるはず!

今日はニュースの紹介。
カナダ・オンタリオ州政府が年間所得50,000$以下の世帯を対象に、高等教育の学費を無料にすると発表しました。さらに、中産階級出身の学生にも奨学金の拡充が検討され、かつ多くの人にとって複雑な奨学金のシステムをわかりやすいシンプルなものにすることも目指されているようです。

http://goo.gl/mWkPDT
http://goo.gl/58hjPZ

高等教育の学費は過去20年で3倍にも膨れ上がっており、多くの学生を苦しめてきました。今回の決定はそういった流れを大きく変える可能性を持つものです。

記事の中では、「今回の決定は、政府が学生達が鳴らす警鐘を聞き続けてきた結果だ」と述べられています。そうです!この決定は天から降ってきたものではありません。オンタリオ州の大学生達、その家族達が声を大にして叫び続けてきた結果なのです。

YouTubeにも動画があったのでちょっと紹介。



日本だと学費を下げろと学生が声を上げることを想像するのはちょっと難しい気もしますが、世界の学生は声を上げ続けています。

それにしても、今回の低所得世帯の学費無償化の決定はきっと他の州にも影響を与えるのだろうなぁと思います。そもそも大学生の学費値上げ等への抵抗で有名なのは実はケベック州なんですよね。ケベックの学生達の闘いの歴史を学生自ら説明してくれている動画があったのでそちらも紹介します。テンポが良くて面白いですよ。


州政府は毎回意見曲げねえって態度示すのに結局学生の声聞いてますね。ツンデレか。
いや、そうじゃなくて、学生達がそれだけ強い姿勢で声を上げ続けているのが大事なのでしょう。

高騰する学費で破産?大学授業料が払えない 奨学金なしに大学に行けない世帯が半数以上


↑一方で、日本はこういう状況なのですね。

さて、高等教育の学費を下げることは不可能なのでしょうか?国はそんな余裕はないと言うでしょうが、アメリカに媚びるのにいくら使っとるんやという話なわけで、出そうと思えば出せるはずです。ただ、どんどん少子化が進み大学生や子育て世帯の意見なんて気にする必要がなくなっているというのが大きいのでしょう。もしここで黙っていたらきっとより一層風向きは悪くなっていくのではないでしょうか?今回のオンタリオ州のニュースは声を上げ、訴え続けることの重要さを伝えてくれているように感じました。

今日はここまで。















2016年2月20日土曜日

子どもの貧困①:インターセクショナリティ、エクイティ、異常/正常

はい、どうも入澤です。
今日は"One in Six: Education and Poverty in Ontario"(6人に1人、オンタリオの教育と貧困)という動画の紹介をしつつ、子どもの貧困について考えます。この動画はオンタリオ州の小学校教員組合が作成したものです。動画は英語で30分ほど。多くの人に見て欲しいですが、見なくてもなんとなくわかるように頑張って書きます。


動画の中では母子家庭のお母さん、移民のお父さん、ネイティブカナディアンの男性、オンタリオ州教育省の女性、地域の活動家と様々な人が子どもの貧困について、当事者として、もしくは子どもの貧困対策に関わる人間として語っています。




そして、もう一つ大事なのは動画の中で"DANNY, KiNG OF THE BASEMENT"(ダニー、地下室の王様)という劇の紹介が行われていること。この劇は子どもの貧困問題の啓発を目的として作製されました。劇の中で、ダニーは母親が仕事を変える度に引っ越しを余儀なくされます。しかし、ダニーは自分を「引っ越しの王様」と名乗り、持ち前の想像力を武器に他の子どもたちを巻き込み、引っ越し先ではいつも素敵な友達をつくります。たくましく生きるダニーの姿は観客が持つ貧困の固定観念を揺さぶります。




この劇はオンタリオ州の様々な地域の多くの学校の中で上演され、子どもたちに貧困問題を考える機会を提供しました。動画の中でも舞台俳優が観客の子どもたちに様々な問いを投げかけている姿が映されています。



この劇が学校で上映されるようになった背景にはオンタリオ州小学校教員組合(ETFO)の尽力がありました。まず、ETFOが「教育と貧困」というプロジェクトを企画します。「ダニー」の劇はこのプロジェクトの一環です。ETFOはこのプロジェクトの効果測定などの研究面での援助をオンタリオ教育研究所の教授に要請、受け入れられます。そして、ETFOはこのプロジェクトの実施のための資金面での援助を教育省に願い出て予算を獲得します。こうして教員組合-大学-教育省のパートナーシップが実現し、プロジェクトが実施されることになりました。このお話は大事なのでまた別途取り上げたいと思います(こればっかり言ってる気がする)。ちなみに、なぜ大事かというと「ここで実現しているプロフェッショナリズムはどんなものか?」と問うことが我々が持つプロフェッショナリズムのイメージを揺るがせてくれるからです。

さて、英語の30分以上ある動画なんて見る気しねぇよという人のために僕が印象に残ったところを挙げていきたいと思います。

1. 貧困の多様さ、ニーズの多様さ、インターセクショナリティ

動画の中では移民や母子家庭、ネイティブカナディアンそして地方といった多様な、それぞれ異なる複雑な貧困のあり方が取り上げられています。特に印象に残ったのが、ネイティブカナディアンの男性が自分は学習障害だと言っていたところ。彼は自分のコミュニティでは普段ネイティブカナディアンの部族の言葉で話していたのですが、当時の学校では英語で話すことが求められました。英語もままならず、文化的な差異から疎外感を常に感じている状態でさらに学習障害。彼は「バカだ」と笑われ、適切な教育的な対応を受けられないまま「排除された」と言っています。ネイティブカナディアンのコミュニティは恒常的な貧困状態にありますが、彼の抱えていた問題は貧困の問題に留まりません。

動画には貧困の問題を階層の問題としてだけ考えるのではなく、多様で複雑なアイデンティティの重層性から考える態度が表れています。現在の社会で生きていくには不利なアイデンティティをいくつも重ねて抱えている人であっても幸せに生きていけるようにするにはどうしたらいいのか?を常に考えるべきですよね。


このアイデンティティの重層性はインターセクショナリティ(Intersectionality)という言葉で表現されています。インターセクションは交差点のことですね。アイデンティティがいつくも重なる交差点に立って社会のあり方、教育のあり方を考えたいです。このインターセクショナリティは超超重要なのでまた今度書きます(本日2回目ですね)。ちなみに上の図は自分自身のアイデンティティの重層性を考える時によく使われるパワーフラワーという表です。


2. Equity(結果の平等)と教育

オンタリオ教育省の女性が語っていますが、「どんな背景の子どもも教室ではみんな同じ」といった素朴な考え方は捨てられなければなりません。大切なのはそれぞれの違いを認め、ニーズを認識し、そのニーズにそった対応を教師が行うこと。これがEquity(結果の平等)に基づいた教育のあり方です。

日本は機会の平等=Equalityは配慮されますが、結果の平等=Equityはイマイチ重視されていません。「同じ授業を受けているから平等に学んでいる」というのは本当でしょうか。なんで中学生になっても九九ができない子どもがいるのでしょうか。教育格差による将来の経済格差を懸念するなら、結果の平等を実現するために何を変えないといけないのか問い続けないといけません。学校外の教育機会に頼ることがあるべき姿でしょうか?ていうか、そもそも結果の平等にどこまで真剣ですか?貧困線超えたら一安心になってませんか?生活保護受給世帯の中学生をとりあえず高校進学させたら平等ですか?何をどこまで目指してますか?

そして、Equity=結果の平等達成のためには教育の領域からの支援だけでは当然限界があります。今日は詳しく書けませんが、僕がいる子どもの貧困率3割のトロントでは非常に様々な支援がされています。ここらへんはまた次の機会に書きたいと思います(3回目や。。。)

3. 貧困のスティグマを避けながら非貧困/貧困=正常/異常という区分を撹乱する

動画の中でも言及されていますが、オンタリオ州の多くの学校で朝食を支給するプログラムを実施しています。これは子ども達がお腹をすかせたまま学校にやってくることがあるからです。オンタリオ教育省の女性が言っていますが、スティグマ、つまりどの子どもが貧困状態にあるかが明るみに出てレッテルを貼られることを避けるために、この朝食の時間はどんな子どもも朝食を食べられる和やかな時間であるべきだとされています。


日本でもこの貧困のスティグマの問題は真剣に検討され、子どもたちに貧困のスティグマがつかないように配慮されていると思います。ただ、ここで問題なのは貧困のスティグマが子どもたちに付されるのを避けようと神経質になればなるほど、努力すればするほど、貧困が「何か異常なもの」として立ち現れてくるということです。

動画の中では、劇作家の男性が「子どもたちは貧困を何かいけない病気のように捉えている。貧困状態にある人が一日中、朝から晩まで不幸のどん底のように思ってしまっているが実際はそうではない。」と言っています。

この貧困=異常、病理という固定化した認識をずらすために、オンタリオ教育省の女性は「私自身が移民としてこの国に来た。たくさんの貧困の中で生きる子どもたちのストーリーに触れてきたが、彼らはみなリジリエント、つまり柔軟でしなやかな生きる力に満ちている」と言っています。「ダニー」の劇中でダニーが家庭のお金を管理しているシーンが映し出されますが、劇作家の男性は「観客の子どもたちはダニーが大人のようにお金を管理し、母親にお金を渡している様子を見てとても驚きます。」とも言っています。

貧困を正当化するための言説になっては絶対にいけませんが、貧困の中で子どもが生きるために身につける力があることを無視してはいけないのではないでしょうか。そして、難しい家庭環境の子どもたちも学校で楽しく友達と遊んだり、おしゃべりしたりしているという当たり前のことを認識するべきではないでしょうか。子どもの貧困という問題を社会の多くの人が認識していないからこそ啓発の努力が求められます。しかし、貧困状態を病理のように扱っていては、貧困状態にある人を萎縮させ、その人たちが声をあげることが難しくなります。また、病理の様なイメージが流布することで排除の傾向を強めることも起こりえます。スティグマを避けるだけではなく、常に我々が何を普通だと考えているのか、何を異常と見なしているのかに敏感であるべきです。子どもの貧困の現場に関わる人は特にこのことを意識し、この難しさと向き合う必要があるのではないでしょうか。

さて、色々書きましたが、最後にもう一つだけ。
日本の子どもの貧困対策って「子どもの貧困は社会全体で○○円の損失!みんなで考えよう子どもの貧困!」とか言われてますが、「経済的損失もわかるけど、まずそもそも人権的にNoなんだよ。お前の心が一番貧困だわ。」とよく思います。6年毎に国連から勧告を受けているので(めっちゃアカンやん。なんで改善せえへんのや。)、近々また子どもの権利について社会全体の配慮が無さ過ぎると言われるはずです。その機会をちゃんと有効利用して、子どもの貧困の問題も「子どもの権利」の観点から訴えていきたいですね。

ではでは、今日はこのへんで。





















2016年2月9日火曜日

「ハレ」のプライド、「ケ」のポジティブ・スペース

こんにちは、入澤です。
今日はLGBTの社会運動について書ことうと思います。LGBTの運動ではプライドパレードが世界中に広がり、特に有名ですね。今日はプライドではなく、カナダで広がっているポジティブ・スペースというキャンペーンについて紹介したいと思います。このキャンペーンはカナダの中でも僕がいるオンタリオ州で広がっており、トロント大学でも精力的に取り組まれています。

ポジティブ・スペースとはLGBTの人たちサービスの利用者として尊厳を持った対応を受けることができる場所であり、LGBTの人たちがサービスの提供者としていかなる差別を受けずに働くことができる暖かでインクルーシブな空間です。

ポジティブ・スペースを表明する場所には虹色の逆三角形のマークが掲げられます。
実際、大学内を歩いているとこのマークもしくはポジティブ・スペースという言葉をよく見かけます。道でも、寮の中でも、オンタリオ教育研究所の中でもです。


寮の近くの施設の入口
寮の壁
お世話になってる教授の研究室(だいぶシンボルに年季が入ってますね)


オンタリオ教育研究所の教授達は特に積極的に取り組んでいて、多くの教授達が研究室の扉にこのマークを掲げています。

このキャンペーンは単にこの虹色逆三角のシンボルを掲げればいいというわけではなく、自分たちの職場のLGBT理解の評価、振り返りを行い、必要なトレーニングを受けることまでを促すものです。推進団体もあります(http://www.positivespaces.ca/)。

トロント大学もこのキャンペーン用のホームページを作っています。http://positivespace.utoronto.ca/
他の大学も同様。
ブリティッシュ・コロンビア大学(http://positivespace.ubc.ca/
クイーンズ大学(http://www.queensu.ca/positivespace/

また、ポジティブ・スペースのキャンペーンはプライド・パレードとの連携もしています。昨年の6月25日はトロント大学の学長室も虹色になりました。



このキャンペーン、実は1990年代後半からやっているようで、今年で20周年。それを祝うイベントが偶然2月中にあるみたいなので、行ってみたいと思います。
https://www.eventbrite.ca/e/positive-space-20th-anniversary-brunch-tickets-21046755412

さて、ざっと紹介してみましたが、僕がこのキャンペーンを知って思ったのは、社会運動の「ハレ」の部分も大事だけど、こういう日常のコミュニケーションを改善していく「ケ」の部分も大事だなということ。

LGBTの運動だとプライド・パレードはまさに「ハレ」の部分ですよね。LGBTの人たちが街に繰り出し、派手なパフォーマンスを交えながら自らの権利を社会に訴えていく。一方、そこで訴えたものを日常=「ケ」に具体化していくのがポジティブ・スペースの運動なのかなと思いました。日常の中に少しずつLGBTの人たちが安心できる場所を増やしていく。こうすることでLGBTの人たちをエンパワメントし続けられますし、社会の認識も徐々に変わる。

社会運動の形態は色々ありますが、こういう日常に溶け込んだかたちの、ソーシャルワークとのあわいにある運動が提示するたたかい方は日本でも参考になると思いました。

では、今日はここまで。






2016年2月7日日曜日

コンフォートゾーンの先の感情的な葛藤がインクルーシブ教育の鍵

こんにちは、入澤です。
今日は公正(Equity)と社会包摂(Inclusion)についての学び=変化がゆっくりとしか進まない理由をコンフォートゾーン、ラーニングゾーン、そしてパニックゾーンで構成される円上の図を使って簡単に説明します。図自体は多くの人がどこかで見たことがあるものだと思います。改めてこの図を使うことで社会的包摂についての学びにおける感情的葛藤の重要性が伝わると思います。これは子どもにも大人にも当てはまりますし、また教室内などのミクロなレベルにも、地域や社会全体の変化のようなマクロなレベルにも当てはまります。


まずは3つのレイヤーをそれぞれ見ていきましょう。




コンフォートゾーン我々は親しみのあるトピックについて扱うときはコンフォートゾーンの中にいます。自分が既に持っている知識は価値あるものと見なされており、困難を感じることはありません。我々が新しいことを学ぶように強いられた時、または我々が持っている常識が揺さぶられる時、我々はコンフォートゾーンの外、もしくは端にいることになります。もし我々がコンフォートゾーンのあまりにも外側=パニックゾーンにいると、新しい情報を拒絶することになってしまいます。


ラーニングゾーン
コンフォートゾーンから外に出るギリギリの場所こそがラーニングゾーンであり、我々の理解を広げ、新しい視点を獲得することに最も適しています。私たち自身の中に生まれる反応を注意深く観察することで、我々は自分がラーニングゾーンにいることを知ることができます。自分の中に生まれる困惑、不安、驚き、混乱、自己防衛といった感情が、我々自身が持っている価値観が揺さぶられていることの証です。もし、我々が自分の世界観を揺るがすものとの対峙を避け、自分のコンフォートゾーンに逃げ込むとしたら、我々は学びの機会を逃すことになるでしょう。学びの挑戦はラーニングゾーンを見極め、不快とともにあり、そして学びの導く方に身を委ねることで達成されます。

パニックゾーン=ネクストステップ
コンフォートゾーンを広げ、ラーニングゾーンを超えた先にあるパニックゾーンを取り込んでいくことが長期的に目指されなければなりません。ラーニングゾーンの枠を広げて、慣れ親しんだ知識や経験を増やすことで次のステップに進むことができます。代数の勉強にとりかかる前に、まずは基本的な足し算やかけ算ができなければならないのと同じように、公正な社会のあり方を考えるのにも長い学びの旅をしなければなりません。インクルーシブな教室と学校をつくるために知る必要があることすべてをすぐに理解せねばならないというわけでは必ずしもありません。大事なことは学習に取り組み続けれることです。そうすることでコンフォートゾーンは広がり続け、新しい考え方を知り、よりインクルーシブな学びの空間をつくることができます。
(Hardiman, Jackson and Griffinより作成)

さて、以上3つの層をそれぞれ見てきましたが、大事なのはラーニングゾーンでの感情的な葛藤のところだと思います。感情的な葛藤が生じていない限り本当の学びは発生していません。子どもたちに「差別って良くないよね」と言って「はーい」と返事が返ってきたとしても、彼らの血肉になるかたちでは学びは発生していません。同様に、「多様性って素敵やん」とキラキラと言っているだけの大人も何も学んでいません。

本当にインクルーシブな環境では今まで存在を気にかけていなかった<他者>が横にいることになります。その人はコミュニティから排斥されていたかもしれないし、もともといたんだけど自分のアイデンティティを隠さざるを得なかったのかもしれない。とにかく、未知の存在が横にいることになると心配だったり、驚いたり、もやもやしたりする。

半分カルチャーショックみたいなところもあるのですが、僕が体験した例を一つ。トロント大学には大学内に普通にホームレスがいて、ホームレスと学生が一緒に権利擁護のためにデモをするのを大学のコミュニティセンターが手伝うほどです。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所では1階の図書館でよくイベントが開かれていますが、その時に軽食が振る舞われるので、きまっていつも同じおじさんのホームレスが食べに来ます。でも、誰も何も気にしていなくて、僕は最初とても驚きました。

よく勉強しているロバーツライブラリーという図書館にもほぼ毎日いる中国系のホームレスのおじさんがいます。その人が時々、3階のトイレで体や服を洗っているのですが、服を洗うと埃が舞い上がり、それがめちゃめちゃ臭い。最初は、「はぁ?何やこれ?ふざけんなや!臭過ぎるやろ。ここは大学の図書館やぞ。」と思いました。五感を刺激する不快感にはさすがに耐えられず、思わず「出て行ってくれよ」と思ってしまいました。

ただ、立ち止まって考えてみると、自分の拒否反応というのは日本が清潔で、臭いものや汚いものの近くにいかなくても生きていける環境が整っていること、整い過ぎていることが原因の一つですよね。そして、社会的包摂が実現する限りはこういった社会が排除した「臭い」のようなものも含めて包摂されるのに、僕が強い不快感を感じたということは、政策や制度のレベルでばかり社会的包摂を考えていたということです。そして、僕は「公共」の部分ではなく「サービス」にアクセントを置いて、図書館という公共サービスを理解していたのでしょう。だからこそ、常に清潔に保たれているという「サービス」を無意識に求めたわけです。

このような振り返りの過程では自分の特権について否応もなく考えさせられます。自分の特権と向き合うこともまた感情的な葛藤を伴います。この間、僕はラーニングゾーンにいたのでしょう。そして、あの臭いが気にならなくなるには時間がかかりました。自分にとって「異質」なものが「普通」になるにはそれなりに時間がかかります。やはり、ゆっくりとしか変化はしていきません。

インクルーシブな社会を作るためには、Equityの問題について感情的な葛藤を伴う学びの体験を子どもの頃から積んだ人が増えないといけないのではないでしょうか?感情と理性の両輪での思考が求められます。


さてさて、今日はここまで。もう寝ます。

















2016年2月1日月曜日

インクルーシブ教育のためのカリキュラム分析フレームワーク

今回はEducational Activismの授業でやったインクルーシブ教育を実現するための分析フレームワークにについて。主に社会とかのカリキュラムをイメージしてもらうといいかもしれません。ただ、学校での学びすべてに当てはまる、当てはめるべき分析だと思います。あと、カリキュラムは「指導計画」と考えるより隠れたカリキュラムも含めた「学びの総体」と考えてもらうといいと思います。

1. 社会階層再現モデル
このモデルのカリキュラムは社会のヒエラルキーの上位にいる人たちの視点から構成されています。その人たちは男性であり、異性愛者であり、中産階級以上であり、健常者であり、人種差別を受けていない人たちです。つまり、それ以外の人たちの視点、文化、経験、社会への貢献、情報が欠けてしまっています。選ばれうるあらゆる知識と経験の中から選ばれた「特定の知識」でしかないという自覚がこのモデルのカリキュラムには欠けており、自然なものとして受け取られています。他のあらゆる知識はこのヒエラルキーの上位の視点から評価され、既存の社会のヒエラルキーを支える知識の序列が出来上がります。そして、個人の「成功」のイメージはこのヒエラルキーの頂点の人たちを反映します。

2. 貢献モデル
このモデルではヒエラルキーの上位以外の人たちの視点、経験、知識が欠けていることが自覚されています。つまり「欠けている人たち」を探す姿勢は見られます。ただし、既存のヒエラルキーを反映した価値観に照らし合わせて、「素晴らしい」人たちが探されます。そのため、女性や少数民族の人たちも登場しますが、その人達は既存の社会のヒエラルキーを反映した価値観を受け入れて、その中で成功を収めた人たちです。もしかしたら、それ以外の「欠けている人たち」も含まれることがあるかもしれません。ですが、その時でもその人たちは例外的な扱いで、その人達の何が優れていると言えるのかまでは探求されません。

3. 抑圧モデル
程度の違いはあるものの、すべての人たちがカリキュラムに加えられます。ただし、新たに加えられた人たちは「問題」や「逸脱者」と見なされています。つまり、カリキュラムは依然社会のヒエラルキーを下支えする価値観を反映しており、その規範から外れた人たちを「被害者」と考えています。性別、人種、世代、障害などについての差別が政治的な現象として認識されているので、このモデルでは社会に存在している構造的な不平等の存在に対して分析を行います。ですが、社会の中で特権を持つ人たちの視点からのみ分析に留まります。

4. インクルーシブモデル
このモデルでは、すべての人々の知識、文化、経験の全体が組み込まれ、すべての人が社会の構成員として肯定されます。このモデルは障害、セクシャリティ、ジェンダー、人種、世代、階級などを考慮したインクルーシブなもので、多様な人々の生のあり方が反映されています。社会に存在する多様な知のあり方に配慮した領域横断的な学びが奨励され、競争に勝ってこそ成功者になれるという価値観に批判的な検討が加えられます。

5. 重層的インクルーシブモデル
このモデルでは、すべての人が社会の構成員であると認識されます。人類の歩みが直線的なものとしてではなく、重層的に形成されたものとして描かれます。このモデルでは、学習者は他者との違いだけでなく、共通性にも気付いていきます。人々は複数のアイデンティティを持つ存在として捉えられます。例えば、白人労働者階級の女性、中国人で中産階級のゲイの男性、そしてユダヤ教徒のレズビアン等です。社会のヒエラルキーはグローバルな視点から批判的に考察されます。
(以上のモデルはMcIntosh, Tetreault, Rosser SchusterそしてDyneをもとに作成)


授業では10冊ぐらいの社会の教材の中から一人一冊選んでこの教材を使った授業はどのモデルになりうるか?みたいな分析をしました。僕の選んだ教材は"Herstory"という歴史の教材で、HistoryつまりHis(彼の)+Story(物語)じゃなくてHer(彼女の)Story(物語)ですよ、女性の歴史ですよって教材でした。世界中の歴史上の人物が紹介されていましたが、思いっきり2.の貢献モデルでした。クラスメートの分析では、例えば黒人の歴史についての本を紹介していた人は、「黒人の歴史を抑圧の観点や一部の有名な黒人政治家の視点からのみ描かず多様で重層的なものと描いているから4.のインクルーシブカリキュラムに使えるし、教師のアプローチ次第では5.のモデルに近づけられる」と言っていました。

なんで5.の重層的インクルーシブモデルっていうのが一番理想的なものとして想定されているかというとインターセクショナリティという概念と深く関わります。それは近いうちに書く予定。

ではでは今日はここまで。