2016年5月13日金曜日

子どもの貧困②:3つの理論

どうも、入澤です。
今日は子どもの貧困を考える時に我々が意識的に、または無意識に依拠しているフレームワークについて書きたいと思います。これは昨年秋学期のEducational Activismの授業で扱った内容。教授自身が過去にトロント教育委員会の「公正と多様性」部門のトップとして教育分野での子どもの貧困対策を行っていた人だったので、授業も熱が入っていました。

教授は授業の冒頭で「最近気に入らないことがある。クモォーンがトロントに増えている。クモォーンで労働者階級の子どもたちを支援したらどうかっていう人がいるけどナンセンス!クモォーンは中産階級の子どもに標準を絞って開発されていて、労働者階級の子どもたちには合わないし、週1〜2回のクモォーンで教育成果の不平等に十分にアプローチできると思うな!」と言い放ちました。そして「そうだ!そうだ!」と叫ぶ現役教員のクラスメイト達。どうやら日本原産の学習教室のことを言っているらしく、僕としてはなんとも気まずい感じでした。。。

さて、本題。授業で紹介された理論は3つあります。生得的差異理論(innate-difference theory)、文化的欠損理論(cultural-deficit theory)、そして階級権力/支配理論(class power/dominance theory)です。順番に見ていきましょう。

1. 生得的差異理論(innate-difference theory)




生得的差異理論では不平等の原因を子どもたち自身の中に見出します。つまり、貧困状態に陥る人間は知的に生まれつき劣っているとする考え方です。一番わかりやすいのはIQでしょう。生まれもった不変の知性=IQという尺度があり、その値が低い人間は否応なく教育成果は低くなり、将来の年収や階級も低くなってしまうと想定されます。この考え方で不平等を説明するものとしてBell Curve (Murray and Herrnstein, 1994)という本もあります。



今日ではこの理論は支持されず、批判されています (例えば、Kincheloe et al., 1997)。そもそも科学的にも信用できず、人種差別的、反民主的だという批判が多くよせられているようです。この理論は1)知性は特定の尺度で評価でき、知性は人により生まれつき差がある、2)生まれつきの知性の差は教育成果の差であり、それは経済的成功の差につながっている、と示すことで、3)教育成果の差が生まれること、階級差が生じることは避けようがないことだ、という認識を肯定してしまっています。さらに4)知性が劣っている=社会的地位が低く貧しい、社会的地位が低く貧しい=知性が劣っているという誤った固定観念を世の中に広めることにもなってしまいます。

2. 文化的欠損理論



対して、文化的欠損理論は今でも比較的広く支持されている理論です。この理論では子どもたちが学校で問題を多く抱えるのは生まれついての知性が原因ではなく、子どもたちが属する社会集団の特性によるものだとされます。つまり、(劣った)遺伝か(劣った)環境か?で考えると環境だよと答えるということですね。この理論では、経済的に困難を抱える家庭やコミュニティの「欠陥」のせいで、子どもたちが知識、スキル、習慣、その他学校で成功するために必要な文化的な規範を欠いてしまっていると考えます。子どもたちへの教育に価値を置かない「貧困の文化」(Smaller et al., 1992)の存在を想定することはその代表例です。また、Ruby Payneという人が広めている教員養成プログラムがあるのですが、それは社会的規範から逸脱した貧困層を「矯正」する教員を育てることを目的としており、この理論に依拠したアプローチの例といえます。

さて、この理論もまた批判さています。Gorski(2008)は多くのデータを参照しながら低所得世帯の親が中産階級の親と同じように子どもたちの勉強に価値を置いていることを明らかにしています。



文化的欠損理論は低所得世帯が教育に関心がない等の固定観念を生み、広めてしまいます。実際、この固定観念は労働倫理の無さといった他の固定観念とも結びついて、「弱者叩き」の様相を呈しています。教育に必要な様々な資源へのアクセスが限られてしまっているという構造的な問題に目を向けることなく、低所得世帯=歪んだ倫理観、劣った文化を持っている奴らという固定観念が一人歩きしてしまう。社会的、経済的な構造の問題に目を向けることなく、社会的集団に特性を見出しそれに貧困の原因を求めるという本質主義的な態度は結局のところ生得的差異理論と変わらないということなのでしょう。

文化的欠損理論からの貧困へのアプローチは「欠損」の「矯正」になることも問題です。これ、往々にしていい結果を生みません。例えば、「貧困世帯の親は子どもとのコミュニケーション量が少ないというデータがあり、また共感的なコミュニケーションよりも威圧的なコミュニケーションが多い傾向にある。これは子どもたちの育ちに悪影響だ。なので、貧困世帯の親に子どもとのコミュニケーションの大事さ、方法を伝える講座を開こう」となったとします。この考えの中では共働きの両親の時間的そして精神的余裕の無さには何も配慮されていません。また、ここでの子育てのイメージは中産階級核家族による子育てのあり方が前提になっているかもしれません。つまり、お父さんとお母さんがいて、主にその2人が子育てに参加している家庭です。それぞれの家庭が連携し合いコミュニティをつくり、子どもたちがそのコミュニティの中でたくましく育っているなどの可能性は検討されていません。なので、貧困世帯の親からすると、不当に自分たちを劣った存在であると見なされ、尊厳を傷つけられたと感じるということが起こります。そうすると、その講座にはきっと人は集まらないでしょう。ですが、主催者側はきっと「やっぱりあいつらは子育てに配慮しない奴らだ」と思ってしまいます。そして一般に流布している言説が肯定されてしまいます。「欠損」の「矯正」のアプローチで臨むとたいてい失敗して、そして残念なことに「欠損」のイメージだけは強くなったりする。

3. 階級権力/支配理論



さて、最後は階級権力/支配理論です。日本語訳がこなれてませんね。。。普通に権力理論とか言った方がわかりやすそう。この理論は批判的教育研究の出番といったところでしょうか。この理論は支配階級(より多くの権力を持つグループ)が政治経済的な権力の不均衡、不正な構造を作り上げることによって社会階層を固定化する方法に焦点を当てます。権力理論は学校や教育システムが社会経済的な権力を持った一部の人間の利益に適うように形作られ、多くの生徒のwell-beingを犠牲にしていると主張します。ここでの基本的な前提は、貧困世帯の子どもたちが学校で困難を抱えるのは、彼らに「欠陥」があるからではなく、彼らと彼らの属する社会集団がより裕福な子どもたちと社会集団に比べて社会への影響力が弱く特権に与れていないからだとされます。

大切なのは学校・既存の教育システムを「当然のもの」「所与のもの」と考えず、構造自体を問い直す姿勢だと思います。権力の不均衡は、正規のカリキュラム(学習計画、教師の指導法、教科書などの教材)、隠れたカリキュラム、評価・選抜のあり方など全体に反映されています。これらがどう不平等を生み出しているか読み解き、変革可能性を探るのが大事。

まとめ

長くなったので一旦まとめ。

生得的差異理論、文化的欠損理論では社会的に弱い立場にある子どもたちと彼らが属する社会集団に彼らが学校で成功できない理由が見出されていました。「IQが低い」であるとか「あいつらは倫理観に欠ける」「あいつらは教育に関心がない」とか。ここでは特定の評価尺度が恣意的に選ばれているのですが、社会の多くの人はそれを当然のものだと感じて疑っていません。こういった評価尺度に寄りかかりながら「優れた人」が「劣った人」に足りないものをいかに足すかが考えられます。ただ、構造的な問題は見過ごされてしまいます。

一方で、権力理論の方は構造の方を問うものです。既存の学校教育は「両親が2人いること」「日本語が母語であること」「日本国籍を有すること」「ヘテロセクシャルであること」「中産階級以上であること」が前提とされがちです。こういった恣意的な前提から形作られる階層構造を疑う必要があります。「困難を抱える子どもたち」とかよく聞くフレーズなのですが、子どもたちに困難がひっついてるのではないですからね。なんか違う。本来は「困難を強いる社会に生きる子どもたち」とか言いたいところですね。

コメント

長々書いてきましたが、自分の考えたことを最後に書きたいと思います。

僕はNPOの学習支援事業の責任者を学生の頃に3年ぐらいやっていました。葛飾区や足立区で主に生活保護受給世帯の子どもたちを対象に学習支援をやる中で色んな子どもたちや保護者に接してきました。子どもたちの中には明らかに幼いときから半ば育児放棄の状態にあり、テレビゲームをベビーシッターに育ってきたという感じの子どもたちもいました。そして、彼らの多くが知的な発達の遅れを示していました。そういう子どもたちを見ているとどうしてもIQを思い浮かべてしまいますし、それが学力向上の限界をつくっているのを実感してしまいます。また、子どもたちが幼い時に介入することが大事だという最近よく言われているようなことも当てはまると思えます。知性が劣っているから社会的地位が低く貧しいというような固定観念は絶対おかしいと思いますが、知的発達についての理解と配慮は絶対に必要です。社会構造の歪みをいかに変えていくのか考えながら、一人ひとりの子どもたちの発達に目をむけないといけません。

また、当時行っていた保護者面談の時に綾小路翔風の「今時こんなリーゼントありか?」と思ってしまう様な髪型のおじさんが殴り込んできて「俺はお勉強なんて嫌いなんだよね」と机を蹴飛ばされながら言われたことがありました。ほとんどこういった保護者はいないのですが、一度でもこういうことがあると社会が作り上げた既存のイメージ(暴力的なヤンキーの父親がめちゃめちゃな子育てしてるから子どもが〜〜になるんや)とつなげて子どもたちの状況を簡単にわかった気になってしまうことが起こりうる。そして何より問題なのが、自分としてはこういう事例は少ないとたとえ理解していても、説明会などでよその人たちに子どもの貧困の問題の根深さを訴える時にどうしてもこういう事例を取り上げてしまう。なぜなら社会の中で既に形作られたイメージを利用した方が相手に訴えやすいからなんですよね。子どもの貧困の問題を多くの人に伝えたいけれど、そのためには偏った文化的欠損理論の立場に立たないと伝わらない、見向きもされないというジレンマがあります。子どもの貧困の現場に関わる人たちは文化的欠損理論に知らず知らず立たないように注意しながら世の中への発信の方法を考えないといけないのではないでしょうか?前回(だいぶ前や。。。)書いた記事で紹介したDannyの劇などはそういった方法のいい事例だと思います(http://mitsuru326irisawa.blogspot.ca/2016/02/blog-post_20.html)。

本当に長くなってしまいました。
これからも子どもの貧困について様々な施策が実施されると思いますが、どういうフレームワークでもって考えられているのかを吟味したいですね。

次に子どもの貧困について書く時はお金がどれぐらい、どういう風に使われているかとか書きますね。
それでは。


























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