2016年1月31日日曜日

社会正義、経済正義そして環境正義:3つの領域の重なりとつながりを意識して社会問題を捉える

こんにちは、入澤です。
トロントは気温が現在2度です。去年の今頃はー10度かそれ以下だったと思うので、かなり暖かく感じます。実際、去年は気温が氷点下から脱した時に春の訪れを感じていました。その時は雪もガンガン溶けていっていましたからね。

今日は「社会正義・経済正義・環境正義のための教育とアクティビズム(Educational Activism for Social, Economic and Environmental Justice)」という秋学期のコースの初回授業のお話。この授業は社会運動への教育学からのアプローチを考えるというもの。扱われるトピックは、社会運動体の組織論、社会運動体の学習論、社会運動の方法論、クリティカル・ペダゴジー、社会運動と学校教育の接続などなど。最後とか「どういうことやねん?」と思われる方ばかりだと思いますが、より公正な社会に向けた変化をどう学校の中に反映させていくかは不平等の再生産を乗り越えるために必要な考え方と受け取られています。

教授はテレジアさんという、教師を経てトロントの教育委員会で長年活動されていた方。実践者からの叩き上げの人です。トロントでは最も有名な活動家の一人だそうです。そして、授業に出ていたのは教師もしくは教師経験者が6割、NPOなどで働く活動家が4割といった感じ。後者の人の中にはGreenpeaceという世界最大規模の環境NPOで働く人もいましたし、LGBTQの若者支援に携わる人もいました。

僕はバックグラウンドが他の人とだいぶ違うのでいつも苦労するし苦手なのですが、初回授業は大抵クラス全員の自己紹介から始まります。今回は教授からさらに経済正義(Economic Justice)、社会正義(Social Justice)、環境正義(Environmental Justice)のどれに興味があってこの授業を受講しようと思ったのかについても話すようにリクエストがありました(Social Justiceについては社会的正義よりも社会正義と訳されることが多いみたいですね。Environmental JusticeとEconomic Justiceは「的」をつける訳もつけない訳もあるみたいです。僕のブログではややこしいので「的」を外すので統一します)。

皆それぞれ自己紹介をしていきましたが、クラスは経済正義、社会正義の両方に関心がある人と環境正義に関心がある人にだいたい分かれていました。それを受けて教授が言ったのが「経済正義、社会正義そして環境正義の3つ全てが互いに重なり合っているので、活動家なら一人ひとりがこの3つの視点から社会問題を考えられるようにならないといけない」ということ。そして教授は「特に、環境正義については社会正義や経済正義の問題に長年取り組む活動家やPhDを持っている人でさえ考えないことが多い。ぜひ他人事にせずこの機会に向き合ってもらいたい」と言っていました。

教授が言うには、途上国の開発計画がうまくいかない理由の一つは年々増加する異常気象の影響を考えていないから。環境を不変のものとする前提に立っている限りどこかで計画に破綻を来すのだそうです。
さて、上に簡単ですが図を書いてみました。
社会正義と経済正義の重なりは男女の給与差など考えるとわかりやすいですね。LGBTQの人に配慮した職場環境の無さが経済的な不平等を生んでいくということなどもここに入ります。経済正義と環境正義の重なりには労働者と公害のことや財政難から原発を誘致せざるをえない自治体、カナダだとファーストネーション(ネイティブカナディアン)の自治区での資源採掘の問題などが当てはまると思います。社会正義と環境正義ではエコフェミニズムが思い浮かびます。真ん中の部分には日本でNPOで働いていた時に出会った福島から避難されてきた母子家庭の親子が思い浮かびました。

言われると当たり前だと感じるし、図にするとより一層当然と思えますが、確かに環境は意識からすっぽりと抜け落ちがちかも。そもそも環境以外にも、「教育格差に関心があります」と言いながらセクシャリティやジェンダーについて何も考えない人とかもいますしね。大事なのは、3つの領域のつながりと重なりを意識しながら自分の立場を振り返ることだと思います。

ではでは、今日はここまで。








2016年1月28日木曜日

"It's Elementary talking about gay issues in school" 小学校からのLGBTQ理解

どうも、入澤です。
課題に追われていますが僕は元気です。

さて、今日は動画の紹介です。
動画のタイトルは"It's Elementary: talking about gay issues in school"です。このタイトルには学校でLGBTQについて取り上げるなんて基本、当然だよ!という意味と小学校から始めようよ!という意味の二つが込められていると思われます。昨年のCritical Pedagogy and Feminist Pedagogiesの授業中に見た動画です。動画はpart1からpart5まであり、最初の4つは10分ほど。最後だけ2分ぐらいです。英語ですが、だいたい見ていたら何やっているかは伝わると思います。

- part 1-

- part 2-

- part 3-

- part 4-

- part 5-

さて、いかがだったでしょうか?子どもたちが低学年の間からLGBTQのことについて授業で取り上げていましたね。子どもたちが小さな時からメディアを通じて偏見を学んでいってしまっていることがわかります。校長先生が率先して学校の中でゲイやレズビアンの両親がいる家庭の写真展を開いているところもありました。大人達の議論のシーンもありましたね。

個人的には「片足でサッカーをするって想像してみてごらん?」と語っている先生が印象に残っています。「足を片方隠しながらサッカーをするっていうのは確かに出来る、でもとても多くのエネルギーを使うよね。」という彼の語りから子どもたちは大切なことを学んだのではないでしょうか。

クラスメイトのレズビアンの女性で、日本に長年住んでいたという人がいるのですが、「あなた女性専用車両に乗ってしまったって想像してみなさいよ。通勤快速だから新宿まであと10分以上止まらないの。でも満員で身動きできない。新宿に着いたらすごい勢いで降りるでしょ?そうやってみんなドロップアウトするのよ。」と言われたことがあります。学校を安全な環境にし、LGBTQの子どもたちが感じる心理的な負担を少しでも減らすことが真の平等につながります。

見て頂いたらわかりますがこの動画かなり古いもので、1990年代の終わり頃のものだそうです。この頃にはまだLGBTQみたいな名称はポピュラーじゃなかったのかもしませんね。だからタイトルがgay issuesとなっているのかも。さて、2016年の日本の学校はどうでしょうか?別に海外の教育をユートピアとして描くことはしません。そんなもんないし。でも、そろそろ本気で自分たちがどんな位置にいるのかを振り返り、動き出したいですね。

ではでは、勉強に戻ります。


2016年1月27日水曜日

差別と闘い続けてきた黒人のおっちゃん教授に聞いた社会変革で大事な3つのこと

どうも、入澤です。
寮の乾燥機がおかしくなっていたせいで洗濯物が湿っていました。こんなことも慣れましたが、洗濯物回収→シャワー→就寝のリズムを壊されて悔しくはあります。1時間待ち時間が生まれたのでブログ更新。

今回は先学期のCritical and Feminist Pedagogiesの授業のお話。ゲスト・ティーチャーでカリフォルニア大学のグラス教授にスカイプでお話してもらった時のことについて。このときはちょうどパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』の内容を扱う回でした。


グラス教授は教育哲学の教授で、一人の黒人男性として抑圧的な社会のあり方を変えるために教育学に何が出来るのかを真摯に考え続けてきた人です。若かりし時にはパウロ・フレイレ自身に師事し活動していたこともあります。


写真は若かりし頃のグラス教授とパウロ・フレイレって、、もじゃもじゃやないかい!!
すいません、取り乱しました。さて、僕は実はこのグラスさんがスカイプの画面に映った時とてもびっくりしました。というのも、アメリカ教育学会に昨年の四月ごろ初めて乗り込みましたが、そこのPedadogy of Hopeというセッションのオーガナイザーがこのグラスさんで、僕はその場でこの人に会っていました。その時は直接会話はなかったのですが、その深みのあるオーラと飄々とした語りにとても魅力を感じていました。

さて、グラス教授は「フレイレの『被抑圧者の教育学』は世界中で読まれているけど、だいたい皆理解してないんだよね。がはは。」というコメントから語り始めました。「フレイレの話題を振って、ああ銀行型教育ねという奴はだいたい何もわかってないよね。あっはっは!」だそうです。ちなみに一番大事な概念はhistoricity。まあ、ここらへんは書いても需要無さそうだし飛ばすぜ。

グラス教授のスカイプ授業で面白かったのは社会変革に必要な3つの態度というお話。それを紹介したいと思います。最初に英語で書いておくと、Epistemology without Certainty, Rightness without Discrimination and Social Movement without Violenceとなります。さて、一つずつ見ていきましょう。


一つ目はEpistemology without Certaintyです。これは簡単な日本語にすると「自分の世界の見方がすべてだと思わないでいること」とかになると思います。グラス教授は黒人として公民権運動の大きな広がりを体験しましたが、公民権運動は色々なマイノリティの運動として分化していきます。大きな運動の中にいる時は「みんな俺と同じ様に苦しめられているのだろう」と思っていたら実はそんなことは全然なくて、男性と女性で世界の見え方は違ったし、性的少数者の世界の見え方はまた違っていた。グラス教授は本当の連帯を実現するためには「自分は苦しむ人の気持ちがわかるし、代弁できるのだ」という奢りをを持っていないか振り返ることが重要だと語っていました。


二つ目はRightness without Discriminationです。日本語にすると「人間を上と下に分けず正しくあること」になると思います。これ、めっちゃ難しいですね。グラス教授は初めて大学の講師になった時、クラスのほとんどがグラス教授を慕ってきた有色人種の学生だったそうです。授業が終わった後、みんなで街を練り歩き食事をとって「その日、どんな差別に出会ったか?」を語りあっていたそうです。一通り語り合うと次にグラス教授は「じゃあ、今日お前等はどんな差別をした?」と聞いていたそうです。「いやー、それでわかったんだけど、俺もあいつらもみんな差別者だったんだよ。俺なんてもう何十年も差別されて、差別とずっと闘ってきてるのにいまだに差別者なんだぜ。がはは!!」とグラス教授は笑っていました。

グラス教授が言っているのは「あいつらは人を差別する終わっている奴ら、俺たちは人を差別しない良い奴」という二分法的な思考に陥っている限り、その二分法的な思考方法が支配する社会のあり方の根本は変わらないということだと思います。さらに一つ前の話ともつながりますが、マイノリティの間でも差別、抑圧は発生してしまいます。人間には自分よりも下の存在をつくり出して、それを見ることで安心しようとする傾向があるものだと思います。グラス教授はそれを乗り越えていくことの重要性を話したのでしょう。


最後は「暴力無き社会運動」。グラス教授は「暴力」というのは難しいトピックで今日の時間では語りきれないと言っていました。ただ、「非暴力」を掲げた運動のあり方についての理論をちゃんと学び、より一層教育学はこれらを取り込まないといけないと語っていました。正直、話を聴いていた学生的には「いいじゃん?暴力。」とかなかなか言えないわけで、あんまりここは盛り上がらずサラッと終わった印象。

ただ、驚いたのはガンジーが話題に上がったこと。歴史上の人物としてのガンジーは知っているけど、社会変革の方法論としてガンジーの非暴力の運動を真剣に考えたことなんかないですよね。ただ、その運動で歴史が動いたのも事実。どこまでもスケール大きく考えていいんだなぁとちょっと感動しました。


さて、どうだったでしょうか。今日はここまで。
僕はそろそろ勉強に戻ります。



2016年1月26日火曜日

インクルーシブ教育に必要な3つのもの?それは窓、鑑そしてドア?

どうも入澤です。
今日は先学期のEducational Activismの授業で教授が話していて「なるほど。わかりやすい!」と思ったインクルーシブ教育のカリキュラムのお話。

日本だとまだまだ特別支援教育の延長で話される傾向があるインクルーシブ教育ですが、カナダだと多文化教育などとあまり境界線を設けずに議論されている印象です。人種の違い、宗教の違い、障害の有無、言語の違い、身体的特徴の違い等など、そういった違いを持った人たちがどうしたら一緒の教室で学ぶことができるのか?というのがインクルーシブ教育が向き合っている問いです。この時、教室内の表面上の平等を達成して喜んでいるだけでなく、構造上の大きな不平等にも目を向けるべきだというよりラディカルな立場が今や主流です。その立場を明確にする意味でも社会正義教育(social justice education)という言葉が最近はよく使われます。

さて、教授は昔実際に教師としてトロントで働いた経験がある人で、教育委員会で子どもの貧困対策などEquityの問題を全般的に扱う部署のトップも勤めた、実践からの叩き上げの人でした。教授が言うにはインクルーシブ教育を本当に意味のあるものにするにはカリキュラムの中に3つのものが必要だとのこと。その3つというのは窓、鑑そしてドア。


一つ目は他者の現実を見るための窓。教室の外の世界に広がる過酷な差別、搾取、抑圧の現実を見つめるための機会がカリキュラムに含まれないといけない。まあ、でもこれは無いとお話にならない。


二つ目が生徒が自分自身を見つめるための鏡。自分の生活のあり方を振り返り、自分が持っている特権について考える機会がカリキュラムの中で確保されていないといけません。「世の中がこうなっているということは知った、じゃあ自分はその世の中でどう生きているのか?」というのが次に問うべき問いです。


最後はドア。ドアは行動と挑戦の象徴です。生徒が自分自身の問題として社会課題を捉えて、行動のために一歩踏み出すことを教師は後押しするべきです。教師は常に学習過程で生徒の中に生じる「それはおかしい!」というunfairnessの感覚を大切にし、それをプラスのエネルギーへと変換するのを助けないといけない。「私に何が出来るのだろう。。。」でカリキュラムを終えるべきではないのです。「世界にあるこの大きな問題に対して、私にはこれができるのだ」という気持ちを育み、一人ひとりが自分をチェンジ・メーカーと思え、考えたことを実践していることが理想です。

さて、「窓、鑑、ドア」というのはとても簡単なフレームワークですが、先生が自分のカリキュラムを見直すのにとても便利だと思います。役立ててもらえたら嬉しいなと思います。

では、勉強に戻ります。









トロント大学でのフェミニズムの存在感について

トロントに来て勉強を始めてから、フェミニズムの存在感をひしひしと感じてます。今日はそこらへんについてちょっと書きますね。

まず日本とカナダの男女の平等について考えてみると、日本は依然男女平等指数101位とかで先進国中最低水準ですね。。。対してカナダは30位で、カナダもめちゃめちゃ高いわけじゃないです。ただ、これはどうやら「政治」の指標における「過去50年間で女性が国のトップになった年数」というところが0なのが足を引っ張っているみたいです。それ以外はとても高い成績。(それにしても他の指標も見ましたけど、これで評価して本当にいいのかってちょっと思ってしまいますね。。大学ランキングぐらいの適当さか。)まあ、日本よりは当然ずっとマシです。

で、フェミニズムの存在感って何よ?という本題ですが、一番感じたのは昨年のトロント大学でのある事件です。ネット上の掲示板に「トロント大学のフェミニズムのコースで学生を殺害する」という殺害予告が行われ、学期初めはかなり騒然としていました。実は僕がとっていたCritical and Feminist Pedagogiesの授業もFeministという単語が入っているので初回授業は中止されてしまいました。

ただ、この事件に対してフェミニストの学生達も大学側も迅速に対応しました。学生達は大学に未だに存在しているミソジニー(女性嫌悪)に対抗するべく声をあげました。


また大学側も事件に迅速に対処。セキュリティを強化しアンチフェミニストから学生や教授達を守ると宣言しました。また、学長はじめ大学執行部が率先してUofT Feministのバッジを身につけフェミニストとの連帯をアピールし、教授達も"A Feminist Professor Works Here"という張り紙を研究室の扉に貼ることで意思表示しました。




フェミニスト達が集まりスピーチをしているところに実際に行ってみましたが、とても多くの人が集まっていました。中には男性や記者の姿もありました。

殺害予告がネット上に出たのは女性達が父権性社会を切り崩す強い影響力を持っていることへのバックラッシュ(揺り戻し)と言えるでしょう。フェミニスト達そしてトロント大学はそういったバックラッシュを許さないという強い姿勢をとりました。この事件を通じて、発生した差別的な事件に対して迅速に対応し、連帯のために行動する「民主的な知的体力」とも言える力の存在をひしひしと感じました。

また、もう一つ考えたいのはフェミニストという言葉の意味の広がりです。UofT Feministのバッジは男性もつけています。カナダのトルドー新首相も「自分はフェミニストだ」と公言しています。もちろん、政治的なアピールというのもあるのでしょうが、カナダでは一般名詞としての「フェミニスト」の定義の中に「父権性社会の抑圧のあり方を問題とし、自分の持っている男性としての特権を批判的に自覚し行動する男性」も当然のように入っているように思えます。もう既に議論はあると思いますが、日本に「フェミニスト」と言える男性はいるでしょうか?言えるでしょうか?

昨年の事件の話はここまでにして、ちょっと勉強している学部のことを最後に書きたいと思います。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所(OISE)には非常に多くのジェンダー×教育の領域を研究する研究者がいます。あまりにも多いので、必修のクラスの教授に「どうしてこんなに多くの研究者がいるのですか?」と聞いたことがありますが、その教授曰く昔はもっと多かったとのこと。フェミニズムの社会運動は退潮していきましたが、それでもフェミニスト達は大学に女性学のコースをつくることに貢献し、そこに居場所を見出しました。そして、「教室という特殊な公共空間をいかに女性の立場から社会のあり方を問う場にしていくのか?」という問いとフェミニストの大学教授達が向き合った結果、フェミニスト・ペダゴジーが発展していきました。OISEはいち早く女性学との連携講座を開き、その発展をさらに促した場所でした。

OISEの一階にはOISEの発展に貢献した女性達の写真が掲げられています。図書館の一画には女性学のコーナーがどーんと設けられています。昨年起こった殺害予告事件を考えても、どんな民主的な場所でも何もしないままに自由で非抑圧的な空気が保たれるなんてことはないのではないでしょうか?必ず揺り戻しの圧力は働きますし、失望するような事件も起きます。ただ、そんな時にも希望を失わないために、今までの到達点を示す象徴を持つことはとても重要に思えます。一階の一番目につく場所にあるこれらの写真は語らないままに常に多くのことを語っているのでしょう。


さて、勉強に戻ります。






2016年1月25日月曜日

”Tough Guise” メディアから作られる男らしさ

Tough Guiseはメディアによる過剰なMasculinityの表象について扱った作品。Guise(見た目)とGuys(男)がかかってるのかな。前学期にCritical and Feminist Pedagogiesの教授に教えてもらいました。全編がYoutubeにアップロードされています。ちなみにTough Guise 2もあります。長めの作品ですが英語もかなりわかりやすいし、苦手な人でも雰囲気でわかるかと。今後はこういう動画、映画の紹介もしていきたいなーと思い、とりあえずやってみました。ネタは一兆個ぐらいあるしな。



男性の方が傷害事件を起こすことが圧倒的に多いって、なんだか当たり前のことのように思ってしまいますが、よくよく考えると全然そんなことないですよね。あと、おもちゃの手の太さが時代が下るごとにどんどん太くなってるのちょっと面白かった。あまりにも過剰な表現なのに言われるまで違和感なく受け止めていたというのが怖い。

スクリーンの前にいることがべらぼうに長い現代です。我々がメディアから自然と学んでしまっていることに教育屋さんももっと注意した方がいいですよね。求められるのは「あの番組は下品だからだめ」とかの禁止の言説ではなくて(そういうのも必要やけどな。キリなさそうやん。)、子どもたちがメディアを批判的に読み解く力を持てるように導くペダゴジーでしょう。

ではでは勉強に戻ります。




2016年1月24日日曜日

The Reason Education Sucks 「なんで教育はクソなのか」

ジョージ・カーリンは7年ぐらい前に亡くなったアメリカのコメディアン。歯に衣着せぬ物言いで政治や社会を批判して人気を博しました。この人の動画をTheoretical Framework in Culture and Communicationの授業中に見たのでシェア。偶然にも日本語字幕がついているものがありました。もともとのタイトルはThe Reason Education Sucksです。


「落ちこぼれなし」の日本語字幕のところではNo Child Left Behindって言ってますね。ブッシュJr.時代に制定されたアメリカ教育の悪法中の悪法です。簡単に言うと統一テストで定められた点数を子どもたちがとることを学校に強く強く求めていくというもの。そして結果に応じて学校に対して信賞必罰をくらわせるというものです。ヘッドスタートと言っているところは「飛び級」と訳されていますが、どちらかというと就学前教育のプログラムのことだと思います。昔から就学前教育に力を入れて子どもたちをヘッドスタート、つまり教育における順調な滑り出しを実現しようとか言っていたくせに「落ちこぼれなし」ってどういうこと?何やってたの?みたいな批判をカーリンはしています。

そして、後半はまさにクリティカル・ペダゴジーが求められる理由を言ってくれていますね。教養があって批判的に考える市民なんて求められていない。そういう人間が育ってこないようにするために教育はずっとずっとクソのままなんだぜ、というのはすごく強烈なメッセージです。

ではでは、勉強に戻ります。




本物の声とぶつかるということ

先学期のCritical and Feminist Pedagogiesというコースの思い出をちょっと書いてみようと思います。とても面白いコースで、最初はパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んだり、Critical Pedagogy Readerからいつくか論文を読んだりしていました。話題は徐々にフェミニストの教育者からのクリティカル・ペダゴジーへの批判に焦点が移っていき、後半はクィア理論とかも扱いました。

コースで学んだ内容も紹介したいのですが、今回はちょっと違う視点から振り返りたいなと思います。それは一人ひとりの語り。

オンタリオ教育研究所で学んでいると差別や抑圧についてクラスで語る時、クラスメイトの当事者としての語りを聞く機会がよくあります。クラスの中には黒人もいればネイティブカナディアンもいますし性的少数者もいます。彼らの経験についての語りを聞く度にガツンと頭を殴られる様な衝撃を感じます。そういう「ガツンとくるやつ」が特にCritical and Feminist Pedagogiesの授業では多かった。

例えば、教授が友人の教授をゲストティーチャーで呼んでくることが何度かあったのですが、そのうちの一人は70歳ぐらいの女性で(海外の大学だと定年過ぎても普通に教えてる人多い。名誉教授でなくても。)エジプトからの移民のレズビアンの教授。黒でも白でもないブラウンの肌を持つ者として感じてきた抑圧、レズビアンとして受けてきた差別、そして故郷を失った第三世界出身者としての喪失感、漂流感。そういった自身の経験の語りを織り交ぜながら執筆された論文について講義してもらったとき、圧倒されて自分をとても小さなものに感じると同時に、この人からこの授業をしてもらえて本当に幸せだと思いました。黒人フェミニストとして有名なベル・フックスという教授が「白人の教授と黒人の教授だったら、私は黒人の教授から学びたいと言う。教える内容は同じかもしれないが、後者には存在への情熱を感じるからだ。」みたいなことを言っているのですが、きっと存在への情熱っていうのはこういう感覚なんだなぁと授業が終わった後の帰り道、しみじみと思っていました。

また、とても仲良くなったクラスメイトに僕と同じぐらいの年齢の女性でイランからの移民だという人がいました。Colors of fearというアメリカの様々な人種の人たちが人種の問題について本音で語り合う映画を見た後、その女性が「カナダはマルチカルチャリズムを掲げているが現実は違う。マルチカルチャリズムなんて大声で皆が言ってるから私は何も言えなくなった。ずっとずっと私は白でも黒でもない茶色の肌で、周りに馴染む感覚を得られなかった。自分が苦しいということさえちゃんと自己認知出来たのはつい最近だ。この映画には私が写っていた。」と感情を乱しながら言っていました。彼女の発言を受けてクラス皆がちょっとずつ話したのですが、僕は何も話せませんでした。話そうと思えば話せるのですが、その時は話すべきではないと思ったんです。

社会の中で自分が持っている特権(カナダで社会正義を考える時、privilegeの話は必須です。これについてはまたどこかで書きましょう。)について自分がどこまで本気で考えていたのだろうか?という問いが自分に迫っていて、そんな中途半端な自分にはこの人の言葉に軽々しく共感を示すことはできないと思えました。自分という存在はカナダの文脈に馴染んでいないのでカナダの政治や文化について何か言うこともできませんし、日本について軽々しいことを言うことも憚られました。このコースの残りの期間、僕はずっとこの日のことを考えて過ごしました。すると教授はそのことに気がついてくれ、最終課題のエッセイのライティングパートナー(お互いのエッセイをフィードバックしあう組)にその女性を選んでくれました。

彼女のエッセイについて詳細を書くことはできません。ただ、そのエッセイはイラン・イラク戦争の勃発、フセインによる反旗を翻した若者への粛正によって国を追われ、両親と共にカナダに渡ったというような書き出しで、とても圧倒されたのを覚えています。「私の人種化された体(racialized body)は大国の政治ゲームで生まれた」という言葉を前に、移民の受け入れを頑に拒む豊かな国から来た自分はどんな言葉を発せられるでしょうか?

「他者の存在をブログのネタにして消費する」というのは一つの不正義になりえることだと思います。ただ、目撃した現実を鑑賞の域にとどめ証言することを拒むことも一つの不正義だと思います。自分が日本からの留学生であることを考えると書く方がいいと判断しました。実証的な数字が真理として認められる時代にあって、証言者としての語りはあいまいなものとして否定される傾向にどんどんなっていくのでしょう。それでも、現実を目撃し続けなければならないし、証言し続けなければならない。自分の証言が正しいものとして認められるように、少しでも賢くならないといけない。学問をするというのは自分にとってそういうことなのでしょう。Critical and Feminist Pedagogiesというコースをとって、そんなことを考えました。









2016年1月17日日曜日

オンタリオ教育研究所留学:近況報告

前回の更新が秋学期の最初だった気がするのは気のせいだよね。
トロントからこんにちは。入澤です。

夏にはトロント大学オンタリオ教育研究所を卒業するので本当にそろそろ真面目に更新していこうと心を改めました(4ヶ月ぶり2度目)。正直、前学期は毎週のリーディングと課題の量が半端無く多くて最初の方は毎週なんとかこなすので精一杯でした。落ち着いてきたな、と思っていたら中粒の課題ラッシュ。最後にたたみかける最終課題。そしてだらけきる正月休み。でも、安心して下さい。書いてますよ。

今学期は毎週土曜日はちょっと勉強のペースを緩めると決めたので、最低でも週一回は更新します。勉強している内容、留学についてなど色々発信していく所存。でも、本当にどんな読者を想定して、どんな文体で、どんな内容を書くかを考えるってなかなか難しいですね。個人的には更新される度にちゃんと読むブログとかはなくて、時々確認するみたいなのがいっぱいある感じです。そもそもこれだけ情報がネット上に溢れかえる時代においては「(○○さんの)読者」って概念自体が失効してる気もします。一つの味に固執するのは賢くないのかな?夜はコース料理で一定のメニュー、味を提供しつつ、昼はビュッフェ形式で色々提供するレストランみたいなブログを目指したらいいのかな?まあ、色々実験します。

さて、近況報告おば。
エルニーニョ現象はばっちりカナダの気候にも影響を与え、1月とは思えない暖かさです。異常気象の増加など大変なことは山ほどあるのであんまり叫んじゃいけないのですが、一回ぐらいいいでしょう。Yeah!! Good Job!! エルニーニョ!だいたい例年一月は氷点下2ケタとか行くのですが、昨日なんて4度ぐらいまで上がって雪がかなり溶けました。ざまあねえぜ!!道の雪が溶ける度に雪の下から犬のうんこがいっぱい出現しますが気にしません。春の訪れを告げる蕗の薹にさえ思えます。なにはともあれ、今年の冬は去年に比べて楽に越せそうです。

今学期は授業を2つ履修し、1つ聴講します。
1つ目はCritical Pedagogy, Language and Cultural Diversity。秋学期に引き続いてクリティカルペダゴジー(日本語で批判的ペダゴジーや批判的教授法とか書こうか迷っちゃいますが、今のところクリティカルペダゴジーと表記します)についての授業をとります。今学期のコースはCurriculum, Teaching and Learningの言語教育を扱う学科で開講されるので言語的マイノリティなどのテーマについても扱うみたい。ただ、シラバス見る限り先学期に比べてずっとクリティカルペダゴジーど真ん中なので楽しみです。

ただ、1つ問題なのがオンラインで行われるコースだということです。どうやらオンラインで配信される映像があるわけではなく(!)、リーディングをこなして掲示板上でディスカッションするという形態らしい。教授は色々と仕掛けをつくっているようですが、本当に深い学びがそれで実現できるのかちょっと疑問です。まぁ言っててもしゃあないので1回やってみようと思います。

2つ目はFoucault, Discourse and The Health Professionという授業。フーコーの著作、フーコーの理論についての論文、フーコーの理論を使用した論文を読んでいくコースです。特に「フーコーを使う」というところをちゃんと勉強したいと思い履修することにしました。ただ、これも問題が一つあって、コースタイトルからも分かりますが中心的なテーマは教育じゃなくて医療なんです。オンタリオ教育研究所で開講されているコースですが、教える教授は医学部にも所属する先生です(そしてトロント大学附属病院の副院長らしい。)そして、初回授業に出席しましたがクラスメイトはほぼ全員医学部の修士か博士の人たち。彼らのほとんどが現役の医者です。グループディスカッションで同じになった3人が全員外科医でなんだか新鮮でした。

3つ目は聴講するコースです。Theoretical Framework in Culture and Communicationというコースで、前学期のCritical and Feminist Pedagogiesの先生が教えるコースです。コース名からはちょっとわかりにくいですが、内容は教育×カルチャルスタディーズみたいなもの。クリティカルペダゴジーを深く学びたかったらちゃんと押さえないといけないなぁと思い、聴講することにしました。

さっそく大量のリーディングに埋もれております。ただ、勉強したいことが勉強できるって本当に幸せ。ちゃんと世の中に還元出来るように精進します。

ではでは。