2016年2月7日日曜日

コンフォートゾーンの先の感情的な葛藤がインクルーシブ教育の鍵

こんにちは、入澤です。
今日は公正(Equity)と社会包摂(Inclusion)についての学び=変化がゆっくりとしか進まない理由をコンフォートゾーン、ラーニングゾーン、そしてパニックゾーンで構成される円上の図を使って簡単に説明します。図自体は多くの人がどこかで見たことがあるものだと思います。改めてこの図を使うことで社会的包摂についての学びにおける感情的葛藤の重要性が伝わると思います。これは子どもにも大人にも当てはまりますし、また教室内などのミクロなレベルにも、地域や社会全体の変化のようなマクロなレベルにも当てはまります。


まずは3つのレイヤーをそれぞれ見ていきましょう。




コンフォートゾーン我々は親しみのあるトピックについて扱うときはコンフォートゾーンの中にいます。自分が既に持っている知識は価値あるものと見なされており、困難を感じることはありません。我々が新しいことを学ぶように強いられた時、または我々が持っている常識が揺さぶられる時、我々はコンフォートゾーンの外、もしくは端にいることになります。もし我々がコンフォートゾーンのあまりにも外側=パニックゾーンにいると、新しい情報を拒絶することになってしまいます。


ラーニングゾーン
コンフォートゾーンから外に出るギリギリの場所こそがラーニングゾーンであり、我々の理解を広げ、新しい視点を獲得することに最も適しています。私たち自身の中に生まれる反応を注意深く観察することで、我々は自分がラーニングゾーンにいることを知ることができます。自分の中に生まれる困惑、不安、驚き、混乱、自己防衛といった感情が、我々自身が持っている価値観が揺さぶられていることの証です。もし、我々が自分の世界観を揺るがすものとの対峙を避け、自分のコンフォートゾーンに逃げ込むとしたら、我々は学びの機会を逃すことになるでしょう。学びの挑戦はラーニングゾーンを見極め、不快とともにあり、そして学びの導く方に身を委ねることで達成されます。

パニックゾーン=ネクストステップ
コンフォートゾーンを広げ、ラーニングゾーンを超えた先にあるパニックゾーンを取り込んでいくことが長期的に目指されなければなりません。ラーニングゾーンの枠を広げて、慣れ親しんだ知識や経験を増やすことで次のステップに進むことができます。代数の勉強にとりかかる前に、まずは基本的な足し算やかけ算ができなければならないのと同じように、公正な社会のあり方を考えるのにも長い学びの旅をしなければなりません。インクルーシブな教室と学校をつくるために知る必要があることすべてをすぐに理解せねばならないというわけでは必ずしもありません。大事なことは学習に取り組み続けれることです。そうすることでコンフォートゾーンは広がり続け、新しい考え方を知り、よりインクルーシブな学びの空間をつくることができます。
(Hardiman, Jackson and Griffinより作成)

さて、以上3つの層をそれぞれ見てきましたが、大事なのはラーニングゾーンでの感情的な葛藤のところだと思います。感情的な葛藤が生じていない限り本当の学びは発生していません。子どもたちに「差別って良くないよね」と言って「はーい」と返事が返ってきたとしても、彼らの血肉になるかたちでは学びは発生していません。同様に、「多様性って素敵やん」とキラキラと言っているだけの大人も何も学んでいません。

本当にインクルーシブな環境では今まで存在を気にかけていなかった<他者>が横にいることになります。その人はコミュニティから排斥されていたかもしれないし、もともといたんだけど自分のアイデンティティを隠さざるを得なかったのかもしれない。とにかく、未知の存在が横にいることになると心配だったり、驚いたり、もやもやしたりする。

半分カルチャーショックみたいなところもあるのですが、僕が体験した例を一つ。トロント大学には大学内に普通にホームレスがいて、ホームレスと学生が一緒に権利擁護のためにデモをするのを大学のコミュニティセンターが手伝うほどです。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所では1階の図書館でよくイベントが開かれていますが、その時に軽食が振る舞われるので、きまっていつも同じおじさんのホームレスが食べに来ます。でも、誰も何も気にしていなくて、僕は最初とても驚きました。

よく勉強しているロバーツライブラリーという図書館にもほぼ毎日いる中国系のホームレスのおじさんがいます。その人が時々、3階のトイレで体や服を洗っているのですが、服を洗うと埃が舞い上がり、それがめちゃめちゃ臭い。最初は、「はぁ?何やこれ?ふざけんなや!臭過ぎるやろ。ここは大学の図書館やぞ。」と思いました。五感を刺激する不快感にはさすがに耐えられず、思わず「出て行ってくれよ」と思ってしまいました。

ただ、立ち止まって考えてみると、自分の拒否反応というのは日本が清潔で、臭いものや汚いものの近くにいかなくても生きていける環境が整っていること、整い過ぎていることが原因の一つですよね。そして、社会的包摂が実現する限りはこういった社会が排除した「臭い」のようなものも含めて包摂されるのに、僕が強い不快感を感じたということは、政策や制度のレベルでばかり社会的包摂を考えていたということです。そして、僕は「公共」の部分ではなく「サービス」にアクセントを置いて、図書館という公共サービスを理解していたのでしょう。だからこそ、常に清潔に保たれているという「サービス」を無意識に求めたわけです。

このような振り返りの過程では自分の特権について否応もなく考えさせられます。自分の特権と向き合うこともまた感情的な葛藤を伴います。この間、僕はラーニングゾーンにいたのでしょう。そして、あの臭いが気にならなくなるには時間がかかりました。自分にとって「異質」なものが「普通」になるにはそれなりに時間がかかります。やはり、ゆっくりとしか変化はしていきません。

インクルーシブな社会を作るためには、Equityの問題について感情的な葛藤を伴う学びの体験を子どもの頃から積んだ人が増えないといけないのではないでしょうか?感情と理性の両輪での思考が求められます。


さてさて、今日はここまで。もう寝ます。

















2016年2月1日月曜日

インクルーシブ教育のためのカリキュラム分析フレームワーク

今回はEducational Activismの授業でやったインクルーシブ教育を実現するための分析フレームワークにについて。主に社会とかのカリキュラムをイメージしてもらうといいかもしれません。ただ、学校での学びすべてに当てはまる、当てはめるべき分析だと思います。あと、カリキュラムは「指導計画」と考えるより隠れたカリキュラムも含めた「学びの総体」と考えてもらうといいと思います。

1. 社会階層再現モデル
このモデルのカリキュラムは社会のヒエラルキーの上位にいる人たちの視点から構成されています。その人たちは男性であり、異性愛者であり、中産階級以上であり、健常者であり、人種差別を受けていない人たちです。つまり、それ以外の人たちの視点、文化、経験、社会への貢献、情報が欠けてしまっています。選ばれうるあらゆる知識と経験の中から選ばれた「特定の知識」でしかないという自覚がこのモデルのカリキュラムには欠けており、自然なものとして受け取られています。他のあらゆる知識はこのヒエラルキーの上位の視点から評価され、既存の社会のヒエラルキーを支える知識の序列が出来上がります。そして、個人の「成功」のイメージはこのヒエラルキーの頂点の人たちを反映します。

2. 貢献モデル
このモデルではヒエラルキーの上位以外の人たちの視点、経験、知識が欠けていることが自覚されています。つまり「欠けている人たち」を探す姿勢は見られます。ただし、既存のヒエラルキーを反映した価値観に照らし合わせて、「素晴らしい」人たちが探されます。そのため、女性や少数民族の人たちも登場しますが、その人達は既存の社会のヒエラルキーを反映した価値観を受け入れて、その中で成功を収めた人たちです。もしかしたら、それ以外の「欠けている人たち」も含まれることがあるかもしれません。ですが、その時でもその人たちは例外的な扱いで、その人達の何が優れていると言えるのかまでは探求されません。

3. 抑圧モデル
程度の違いはあるものの、すべての人たちがカリキュラムに加えられます。ただし、新たに加えられた人たちは「問題」や「逸脱者」と見なされています。つまり、カリキュラムは依然社会のヒエラルキーを下支えする価値観を反映しており、その規範から外れた人たちを「被害者」と考えています。性別、人種、世代、障害などについての差別が政治的な現象として認識されているので、このモデルでは社会に存在している構造的な不平等の存在に対して分析を行います。ですが、社会の中で特権を持つ人たちの視点からのみ分析に留まります。

4. インクルーシブモデル
このモデルでは、すべての人々の知識、文化、経験の全体が組み込まれ、すべての人が社会の構成員として肯定されます。このモデルは障害、セクシャリティ、ジェンダー、人種、世代、階級などを考慮したインクルーシブなもので、多様な人々の生のあり方が反映されています。社会に存在する多様な知のあり方に配慮した領域横断的な学びが奨励され、競争に勝ってこそ成功者になれるという価値観に批判的な検討が加えられます。

5. 重層的インクルーシブモデル
このモデルでは、すべての人が社会の構成員であると認識されます。人類の歩みが直線的なものとしてではなく、重層的に形成されたものとして描かれます。このモデルでは、学習者は他者との違いだけでなく、共通性にも気付いていきます。人々は複数のアイデンティティを持つ存在として捉えられます。例えば、白人労働者階級の女性、中国人で中産階級のゲイの男性、そしてユダヤ教徒のレズビアン等です。社会のヒエラルキーはグローバルな視点から批判的に考察されます。
(以上のモデルはMcIntosh, Tetreault, Rosser SchusterそしてDyneをもとに作成)


授業では10冊ぐらいの社会の教材の中から一人一冊選んでこの教材を使った授業はどのモデルになりうるか?みたいな分析をしました。僕の選んだ教材は"Herstory"という歴史の教材で、HistoryつまりHis(彼の)+Story(物語)じゃなくてHer(彼女の)Story(物語)ですよ、女性の歴史ですよって教材でした。世界中の歴史上の人物が紹介されていましたが、思いっきり2.の貢献モデルでした。クラスメートの分析では、例えば黒人の歴史についての本を紹介していた人は、「黒人の歴史を抑圧の観点や一部の有名な黒人政治家の視点からのみ描かず多様で重層的なものと描いているから4.のインクルーシブカリキュラムに使えるし、教師のアプローチ次第では5.のモデルに近づけられる」と言っていました。

なんで5.の重層的インクルーシブモデルっていうのが一番理想的なものとして想定されているかというとインターセクショナリティという概念と深く関わります。それは近いうちに書く予定。

ではでは今日はここまで。




2016年1月31日日曜日

社会正義、経済正義そして環境正義:3つの領域の重なりとつながりを意識して社会問題を捉える

こんにちは、入澤です。
トロントは気温が現在2度です。去年の今頃はー10度かそれ以下だったと思うので、かなり暖かく感じます。実際、去年は気温が氷点下から脱した時に春の訪れを感じていました。その時は雪もガンガン溶けていっていましたからね。

今日は「社会正義・経済正義・環境正義のための教育とアクティビズム(Educational Activism for Social, Economic and Environmental Justice)」という秋学期のコースの初回授業のお話。この授業は社会運動への教育学からのアプローチを考えるというもの。扱われるトピックは、社会運動体の組織論、社会運動体の学習論、社会運動の方法論、クリティカル・ペダゴジー、社会運動と学校教育の接続などなど。最後とか「どういうことやねん?」と思われる方ばかりだと思いますが、より公正な社会に向けた変化をどう学校の中に反映させていくかは不平等の再生産を乗り越えるために必要な考え方と受け取られています。

教授はテレジアさんという、教師を経てトロントの教育委員会で長年活動されていた方。実践者からの叩き上げの人です。トロントでは最も有名な活動家の一人だそうです。そして、授業に出ていたのは教師もしくは教師経験者が6割、NPOなどで働く活動家が4割といった感じ。後者の人の中にはGreenpeaceという世界最大規模の環境NPOで働く人もいましたし、LGBTQの若者支援に携わる人もいました。

僕はバックグラウンドが他の人とだいぶ違うのでいつも苦労するし苦手なのですが、初回授業は大抵クラス全員の自己紹介から始まります。今回は教授からさらに経済正義(Economic Justice)、社会正義(Social Justice)、環境正義(Environmental Justice)のどれに興味があってこの授業を受講しようと思ったのかについても話すようにリクエストがありました(Social Justiceについては社会的正義よりも社会正義と訳されることが多いみたいですね。Environmental JusticeとEconomic Justiceは「的」をつける訳もつけない訳もあるみたいです。僕のブログではややこしいので「的」を外すので統一します)。

皆それぞれ自己紹介をしていきましたが、クラスは経済正義、社会正義の両方に関心がある人と環境正義に関心がある人にだいたい分かれていました。それを受けて教授が言ったのが「経済正義、社会正義そして環境正義の3つ全てが互いに重なり合っているので、活動家なら一人ひとりがこの3つの視点から社会問題を考えられるようにならないといけない」ということ。そして教授は「特に、環境正義については社会正義や経済正義の問題に長年取り組む活動家やPhDを持っている人でさえ考えないことが多い。ぜひ他人事にせずこの機会に向き合ってもらいたい」と言っていました。

教授が言うには、途上国の開発計画がうまくいかない理由の一つは年々増加する異常気象の影響を考えていないから。環境を不変のものとする前提に立っている限りどこかで計画に破綻を来すのだそうです。
さて、上に簡単ですが図を書いてみました。
社会正義と経済正義の重なりは男女の給与差など考えるとわかりやすいですね。LGBTQの人に配慮した職場環境の無さが経済的な不平等を生んでいくということなどもここに入ります。経済正義と環境正義の重なりには労働者と公害のことや財政難から原発を誘致せざるをえない自治体、カナダだとファーストネーション(ネイティブカナディアン)の自治区での資源採掘の問題などが当てはまると思います。社会正義と環境正義ではエコフェミニズムが思い浮かびます。真ん中の部分には日本でNPOで働いていた時に出会った福島から避難されてきた母子家庭の親子が思い浮かびました。

言われると当たり前だと感じるし、図にするとより一層当然と思えますが、確かに環境は意識からすっぽりと抜け落ちがちかも。そもそも環境以外にも、「教育格差に関心があります」と言いながらセクシャリティやジェンダーについて何も考えない人とかもいますしね。大事なのは、3つの領域のつながりと重なりを意識しながら自分の立場を振り返ることだと思います。

ではでは、今日はここまで。








2016年1月28日木曜日

"It's Elementary talking about gay issues in school" 小学校からのLGBTQ理解

どうも、入澤です。
課題に追われていますが僕は元気です。

さて、今日は動画の紹介です。
動画のタイトルは"It's Elementary: talking about gay issues in school"です。このタイトルには学校でLGBTQについて取り上げるなんて基本、当然だよ!という意味と小学校から始めようよ!という意味の二つが込められていると思われます。昨年のCritical Pedagogy and Feminist Pedagogiesの授業中に見た動画です。動画はpart1からpart5まであり、最初の4つは10分ほど。最後だけ2分ぐらいです。英語ですが、だいたい見ていたら何やっているかは伝わると思います。

- part 1-

- part 2-

- part 3-

- part 4-

- part 5-

さて、いかがだったでしょうか?子どもたちが低学年の間からLGBTQのことについて授業で取り上げていましたね。子どもたちが小さな時からメディアを通じて偏見を学んでいってしまっていることがわかります。校長先生が率先して学校の中でゲイやレズビアンの両親がいる家庭の写真展を開いているところもありました。大人達の議論のシーンもありましたね。

個人的には「片足でサッカーをするって想像してみてごらん?」と語っている先生が印象に残っています。「足を片方隠しながらサッカーをするっていうのは確かに出来る、でもとても多くのエネルギーを使うよね。」という彼の語りから子どもたちは大切なことを学んだのではないでしょうか。

クラスメイトのレズビアンの女性で、日本に長年住んでいたという人がいるのですが、「あなた女性専用車両に乗ってしまったって想像してみなさいよ。通勤快速だから新宿まであと10分以上止まらないの。でも満員で身動きできない。新宿に着いたらすごい勢いで降りるでしょ?そうやってみんなドロップアウトするのよ。」と言われたことがあります。学校を安全な環境にし、LGBTQの子どもたちが感じる心理的な負担を少しでも減らすことが真の平等につながります。

見て頂いたらわかりますがこの動画かなり古いもので、1990年代の終わり頃のものだそうです。この頃にはまだLGBTQみたいな名称はポピュラーじゃなかったのかもしませんね。だからタイトルがgay issuesとなっているのかも。さて、2016年の日本の学校はどうでしょうか?別に海外の教育をユートピアとして描くことはしません。そんなもんないし。でも、そろそろ本気で自分たちがどんな位置にいるのかを振り返り、動き出したいですね。

ではでは、勉強に戻ります。


2016年1月27日水曜日

差別と闘い続けてきた黒人のおっちゃん教授に聞いた社会変革で大事な3つのこと

どうも、入澤です。
寮の乾燥機がおかしくなっていたせいで洗濯物が湿っていました。こんなことも慣れましたが、洗濯物回収→シャワー→就寝のリズムを壊されて悔しくはあります。1時間待ち時間が生まれたのでブログ更新。

今回は先学期のCritical and Feminist Pedagogiesの授業のお話。ゲスト・ティーチャーでカリフォルニア大学のグラス教授にスカイプでお話してもらった時のことについて。このときはちょうどパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』の内容を扱う回でした。


グラス教授は教育哲学の教授で、一人の黒人男性として抑圧的な社会のあり方を変えるために教育学に何が出来るのかを真摯に考え続けてきた人です。若かりし時にはパウロ・フレイレ自身に師事し活動していたこともあります。


写真は若かりし頃のグラス教授とパウロ・フレイレって、、もじゃもじゃやないかい!!
すいません、取り乱しました。さて、僕は実はこのグラスさんがスカイプの画面に映った時とてもびっくりしました。というのも、アメリカ教育学会に昨年の四月ごろ初めて乗り込みましたが、そこのPedadogy of Hopeというセッションのオーガナイザーがこのグラスさんで、僕はその場でこの人に会っていました。その時は直接会話はなかったのですが、その深みのあるオーラと飄々とした語りにとても魅力を感じていました。

さて、グラス教授は「フレイレの『被抑圧者の教育学』は世界中で読まれているけど、だいたい皆理解してないんだよね。がはは。」というコメントから語り始めました。「フレイレの話題を振って、ああ銀行型教育ねという奴はだいたい何もわかってないよね。あっはっは!」だそうです。ちなみに一番大事な概念はhistoricity。まあ、ここらへんは書いても需要無さそうだし飛ばすぜ。

グラス教授のスカイプ授業で面白かったのは社会変革に必要な3つの態度というお話。それを紹介したいと思います。最初に英語で書いておくと、Epistemology without Certainty, Rightness without Discrimination and Social Movement without Violenceとなります。さて、一つずつ見ていきましょう。


一つ目はEpistemology without Certaintyです。これは簡単な日本語にすると「自分の世界の見方がすべてだと思わないでいること」とかになると思います。グラス教授は黒人として公民権運動の大きな広がりを体験しましたが、公民権運動は色々なマイノリティの運動として分化していきます。大きな運動の中にいる時は「みんな俺と同じ様に苦しめられているのだろう」と思っていたら実はそんなことは全然なくて、男性と女性で世界の見え方は違ったし、性的少数者の世界の見え方はまた違っていた。グラス教授は本当の連帯を実現するためには「自分は苦しむ人の気持ちがわかるし、代弁できるのだ」という奢りをを持っていないか振り返ることが重要だと語っていました。


二つ目はRightness without Discriminationです。日本語にすると「人間を上と下に分けず正しくあること」になると思います。これ、めっちゃ難しいですね。グラス教授は初めて大学の講師になった時、クラスのほとんどがグラス教授を慕ってきた有色人種の学生だったそうです。授業が終わった後、みんなで街を練り歩き食事をとって「その日、どんな差別に出会ったか?」を語りあっていたそうです。一通り語り合うと次にグラス教授は「じゃあ、今日お前等はどんな差別をした?」と聞いていたそうです。「いやー、それでわかったんだけど、俺もあいつらもみんな差別者だったんだよ。俺なんてもう何十年も差別されて、差別とずっと闘ってきてるのにいまだに差別者なんだぜ。がはは!!」とグラス教授は笑っていました。

グラス教授が言っているのは「あいつらは人を差別する終わっている奴ら、俺たちは人を差別しない良い奴」という二分法的な思考に陥っている限り、その二分法的な思考方法が支配する社会のあり方の根本は変わらないということだと思います。さらに一つ前の話ともつながりますが、マイノリティの間でも差別、抑圧は発生してしまいます。人間には自分よりも下の存在をつくり出して、それを見ることで安心しようとする傾向があるものだと思います。グラス教授はそれを乗り越えていくことの重要性を話したのでしょう。


最後は「暴力無き社会運動」。グラス教授は「暴力」というのは難しいトピックで今日の時間では語りきれないと言っていました。ただ、「非暴力」を掲げた運動のあり方についての理論をちゃんと学び、より一層教育学はこれらを取り込まないといけないと語っていました。正直、話を聴いていた学生的には「いいじゃん?暴力。」とかなかなか言えないわけで、あんまりここは盛り上がらずサラッと終わった印象。

ただ、驚いたのはガンジーが話題に上がったこと。歴史上の人物としてのガンジーは知っているけど、社会変革の方法論としてガンジーの非暴力の運動を真剣に考えたことなんかないですよね。ただ、その運動で歴史が動いたのも事実。どこまでもスケール大きく考えていいんだなぁとちょっと感動しました。


さて、どうだったでしょうか。今日はここまで。
僕はそろそろ勉強に戻ります。



2016年1月26日火曜日

インクルーシブ教育に必要な3つのもの?それは窓、鑑そしてドア?

どうも入澤です。
今日は先学期のEducational Activismの授業で教授が話していて「なるほど。わかりやすい!」と思ったインクルーシブ教育のカリキュラムのお話。

日本だとまだまだ特別支援教育の延長で話される傾向があるインクルーシブ教育ですが、カナダだと多文化教育などとあまり境界線を設けずに議論されている印象です。人種の違い、宗教の違い、障害の有無、言語の違い、身体的特徴の違い等など、そういった違いを持った人たちがどうしたら一緒の教室で学ぶことができるのか?というのがインクルーシブ教育が向き合っている問いです。この時、教室内の表面上の平等を達成して喜んでいるだけでなく、構造上の大きな不平等にも目を向けるべきだというよりラディカルな立場が今や主流です。その立場を明確にする意味でも社会正義教育(social justice education)という言葉が最近はよく使われます。

さて、教授は昔実際に教師としてトロントで働いた経験がある人で、教育委員会で子どもの貧困対策などEquityの問題を全般的に扱う部署のトップも勤めた、実践からの叩き上げの人でした。教授が言うにはインクルーシブ教育を本当に意味のあるものにするにはカリキュラムの中に3つのものが必要だとのこと。その3つというのは窓、鑑そしてドア。


一つ目は他者の現実を見るための窓。教室の外の世界に広がる過酷な差別、搾取、抑圧の現実を見つめるための機会がカリキュラムに含まれないといけない。まあ、でもこれは無いとお話にならない。


二つ目が生徒が自分自身を見つめるための鏡。自分の生活のあり方を振り返り、自分が持っている特権について考える機会がカリキュラムの中で確保されていないといけません。「世の中がこうなっているということは知った、じゃあ自分はその世の中でどう生きているのか?」というのが次に問うべき問いです。


最後はドア。ドアは行動と挑戦の象徴です。生徒が自分自身の問題として社会課題を捉えて、行動のために一歩踏み出すことを教師は後押しするべきです。教師は常に学習過程で生徒の中に生じる「それはおかしい!」というunfairnessの感覚を大切にし、それをプラスのエネルギーへと変換するのを助けないといけない。「私に何が出来るのだろう。。。」でカリキュラムを終えるべきではないのです。「世界にあるこの大きな問題に対して、私にはこれができるのだ」という気持ちを育み、一人ひとりが自分をチェンジ・メーカーと思え、考えたことを実践していることが理想です。

さて、「窓、鑑、ドア」というのはとても簡単なフレームワークですが、先生が自分のカリキュラムを見直すのにとても便利だと思います。役立ててもらえたら嬉しいなと思います。

では、勉強に戻ります。









トロント大学でのフェミニズムの存在感について

トロントに来て勉強を始めてから、フェミニズムの存在感をひしひしと感じてます。今日はそこらへんについてちょっと書きますね。

まず日本とカナダの男女の平等について考えてみると、日本は依然男女平等指数101位とかで先進国中最低水準ですね。。。対してカナダは30位で、カナダもめちゃめちゃ高いわけじゃないです。ただ、これはどうやら「政治」の指標における「過去50年間で女性が国のトップになった年数」というところが0なのが足を引っ張っているみたいです。それ以外はとても高い成績。(それにしても他の指標も見ましたけど、これで評価して本当にいいのかってちょっと思ってしまいますね。。大学ランキングぐらいの適当さか。)まあ、日本よりは当然ずっとマシです。

で、フェミニズムの存在感って何よ?という本題ですが、一番感じたのは昨年のトロント大学でのある事件です。ネット上の掲示板に「トロント大学のフェミニズムのコースで学生を殺害する」という殺害予告が行われ、学期初めはかなり騒然としていました。実は僕がとっていたCritical and Feminist Pedagogiesの授業もFeministという単語が入っているので初回授業は中止されてしまいました。

ただ、この事件に対してフェミニストの学生達も大学側も迅速に対応しました。学生達は大学に未だに存在しているミソジニー(女性嫌悪)に対抗するべく声をあげました。


また大学側も事件に迅速に対処。セキュリティを強化しアンチフェミニストから学生や教授達を守ると宣言しました。また、学長はじめ大学執行部が率先してUofT Feministのバッジを身につけフェミニストとの連帯をアピールし、教授達も"A Feminist Professor Works Here"という張り紙を研究室の扉に貼ることで意思表示しました。




フェミニスト達が集まりスピーチをしているところに実際に行ってみましたが、とても多くの人が集まっていました。中には男性や記者の姿もありました。

殺害予告がネット上に出たのは女性達が父権性社会を切り崩す強い影響力を持っていることへのバックラッシュ(揺り戻し)と言えるでしょう。フェミニスト達そしてトロント大学はそういったバックラッシュを許さないという強い姿勢をとりました。この事件を通じて、発生した差別的な事件に対して迅速に対応し、連帯のために行動する「民主的な知的体力」とも言える力の存在をひしひしと感じました。

また、もう一つ考えたいのはフェミニストという言葉の意味の広がりです。UofT Feministのバッジは男性もつけています。カナダのトルドー新首相も「自分はフェミニストだ」と公言しています。もちろん、政治的なアピールというのもあるのでしょうが、カナダでは一般名詞としての「フェミニスト」の定義の中に「父権性社会の抑圧のあり方を問題とし、自分の持っている男性としての特権を批判的に自覚し行動する男性」も当然のように入っているように思えます。もう既に議論はあると思いますが、日本に「フェミニスト」と言える男性はいるでしょうか?言えるでしょうか?

昨年の事件の話はここまでにして、ちょっと勉強している学部のことを最後に書きたいと思います。僕が勉強しているオンタリオ教育研究所(OISE)には非常に多くのジェンダー×教育の領域を研究する研究者がいます。あまりにも多いので、必修のクラスの教授に「どうしてこんなに多くの研究者がいるのですか?」と聞いたことがありますが、その教授曰く昔はもっと多かったとのこと。フェミニズムの社会運動は退潮していきましたが、それでもフェミニスト達は大学に女性学のコースをつくることに貢献し、そこに居場所を見出しました。そして、「教室という特殊な公共空間をいかに女性の立場から社会のあり方を問う場にしていくのか?」という問いとフェミニストの大学教授達が向き合った結果、フェミニスト・ペダゴジーが発展していきました。OISEはいち早く女性学との連携講座を開き、その発展をさらに促した場所でした。

OISEの一階にはOISEの発展に貢献した女性達の写真が掲げられています。図書館の一画には女性学のコーナーがどーんと設けられています。昨年起こった殺害予告事件を考えても、どんな民主的な場所でも何もしないままに自由で非抑圧的な空気が保たれるなんてことはないのではないでしょうか?必ず揺り戻しの圧力は働きますし、失望するような事件も起きます。ただ、そんな時にも希望を失わないために、今までの到達点を示す象徴を持つことはとても重要に思えます。一階の一番目につく場所にあるこれらの写真は語らないままに常に多くのことを語っているのでしょう。


さて、勉強に戻ります。